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Monday, September 25, 2006

China (Dec.95)

95年12月上旬、2人で香港->雲南(昆明/大理)->上海(蘇州)を旅行しました。

第一日 成田~香港

偶然にも、香港が目的地の仲間たち数名と一緒になった。宿泊は別だったが、夕食やヴィクトリアピークの観光などに行く。

第二日 香港

中国へ入る前ということで、さしたることもせず(今から思うともったいない)、要領の悪い私たちは、あえて書けるようなこともできずに終わってしまった。

第三日 香港~昆明

香港発のドラゴン航空便は定刻に昆明に着いた。「茶色い」というのが第一印象。
雲南航空のオフィス探しで半時間ほど費やす。道を渡った向かい、空港ビルを出てやや左前方に見つけた。チケットにリコンファームスタンプを押してもらう。
近くのトイレは1元も取られた。空港を出て左手には、民航バスが止まっている。市内へ2元。3時頃に民航オフィス着。
茶花賓館ロビー奥にある旅行社で、今晩の大理行きの寝台バスチケット入手。一人80元。翠湖公園を目指して街歩き。日曜のせいか工人文化宮前の広場は人出が多い。遅くなったので公園にはいるのは諦めて戻る。
7時頃、茶花の向かいの実験飯店で、チャーハン、スープ、豆腐のトマトソース炒めという質素な夕食を取る。5元5角。
8時に茶花賓館を出て、大理、麗江行きの二段寝台バスまで送迎してもらう。中は左右2列の寝台が、上下2段に作りつけられている。ほとんどベッドに近く、たいへんくつろげるのだがなんとなく寝付けない。

第四日 昆明~大理

まだ暗いうちに「シアクワン、シアクワン(下関)」という声で目覚める。
まだ下関か、と再び寝込む。
次に目覚めるとバスは左手に山脈、右手には湖を見ながら黎明を走っている。そろそろ大理だろうか?と思いつつ20分くらいが過ぎ、ようやく乗越しに気づく。同居人を起こして運転席の助手(とおぼしき兄ちゃん)に「大理古城?」と書いてみせると驚いた顔をしてバスの後方を指さした。
どこまで行ってしまったのか?内心焦りつつ、大理の北の街を思い出しては書いてみる。「周城?」後ろ後ろのサイン。「喜州?」後ろ後ろのサイン。「沙坪?」と書くと、ようやく安心したように「沙坪、おーおー」と頷いて前方を指さしてくれた。「我要降車於沙坪 請叫我一声」と怪しげな中国語で書くと、わかったらしい。沙坪で降りる。
ここは、今日、月曜バザールが行われるはずの土地で、大理にチェックインしてから来ようと思っていたところ。もちろん人影は未だ無い。8時くらいのはずだが、辺りはまだ薄暗く、ものすごく寒い。
困っていると、道の反対側からミニバスの運ちゃんがクラクションを鳴らしてくれた。聞いてみると大理にも行くという。これが4路バスらしい。一人4元。バスの中は、鮮やかな民族衣装を着た白族の女性と、煙草をくゆらすおじさんで満員だった。

8時半くらいに大理の北のはずれに着く。そこから歩いて中心部の護国路と復興路の交差点を目指す。水たまりは凍っているように見える。
9時直前、紅山茶賓館(No.2 Guest House)に着く。隣の太白楼旅行社のお兄さんに、沙坪のバザールへ行くツアーを聞くと、9時に出発して2時に帰着するとのこと。宿探しもしないまま、荷物(といってもデイパックだけだが)を持ってミニバスに乗り込む。
欧米人に混じっていた、日本人の学生「古枝」君と知り合う。大学の研修旅行で、成都に行く途中だが、せっかくだからとバンコクを回ってきたという。昆明で親切そうな人に街を案内されて、いきなり200元も取られたそうだ。
それでも陽気な人で「飯がうまいところっていいですよね」など楽しそうにしている。中国向きの人だなぁ、と(皮肉ではなく)感心する。

11時頃、今度は沙坪は人の山になっていた。cn0007
3人で屋台のようなテントで、よくわからないがとても辛い炒め物 (魚、肉、米線(麺類)の3皿)と山のようなご飯を食べていると、白族のおばちゃんがやってきて、同居人に刺繍製品を売り込み始める。
バッグ(23元)を買うと、その後、なにかと面倒を見てくれたり果物をくれたりする。私も白族の女性がつけている髪飾りを買う(こちらは40元までしか下がらなかったが)。

大理に帰って古枝君と別れる。彼は紅山に泊まっているそうなので、せっかくだから別のところということで、護国路の北端近くにある楡安園(No.4 Guest House)のツインにチェックイン。トイレ・シャワーは共同だが、中庭やレストラン、画廊があり、ちょっとリゾートコテージ風(あくまで「風」だが)。
若い中国人の女の子たち4人が掃除やら雑事をやっているようで、なかの一人、レセプションにいる女の子はとても流暢に英語を話す。一泊40元に加えて鍵のデポジットとして10元を払い、チェックインする。(ドミは10元とのこと)部屋は6畳程度でベッドは柔らかく、裸電球とスタンド、ごみ箱、サンダル2足に洗面器2つ、電子蚊取り器がある。
自動給水ではない洗濯機と洗剤もある。トイレ(は、いわゆる穴だけトイレ)・シャワーが別棟でこの季節は寒いのと、ちょうど男子トイレが修繕中で困ったことを除けば、快適な宿だった。宿の門は、午前2時までは開けているとのこと。
夕方、白太楼で帰途のバスを予約、南門へ向かってメインストリートらしい復興路をぶらぶらする。南門の楼上のカフェの三道茶は10元、乳扇というチーズを揚げたお菓子はついていない(以前はあったらしい)が、厚揚のようなお菓子をサービスしてくれた。この2階のカフェのなかから楼門の3階にも上がれる。日本の学生が書いてくれたという日本語の説明書きがあった。南門にはいるのに1元いるが、6時くらいで售票処のおねえさんは帰ってしまうようで、入れ替わりに、ラジカセを持った近所の人たちがダンスをするため(?)に集まってきていた。

7時頃に、杏花村酒家に名物の砂鍋を食べに行く。これは辛くなくて安心する。砂鍋、麻婆肉炒(辛い)、白飯一斤、あんこ入りの乳扇と大理ビールで36元。食べきれない量になってしまった。

第五日 大理

朝、路傍の包子を朝食にして、喜洲とアルハイへ行ってみようと思い立つ。
だが白太楼で尋ねるとツアーではないアルハイの観光船はとても高いとのこと。観光用ではないボートは喜洲からはないらしいので、湖畔を見るだけにする。cn00024路バスで喜洲へ。20分くらい歩いて街の中へ。
ここには「白族民族村」のような施設があって、大きな民族様式の家屋や踊りを見ることができる(2元)。ここでも三道茶が飲めるようだ。白族の家屋は外見よりも中が広く、高い壁の間にたくさんの空間がある。家屋の片側に設けられた風除けの壁は巨大なので、相当強い季節風が吹くのだろう。cn0008
東のはずれの市場を抜けてアルハイの方向に歩いていく。そこに湖が見えているのにやたらと遠い。40分くらい歩き、2つほど村を抜けてやっと畔の寺院に着く。
魚を取っている人たちが、舟で出入りしているが、ここは音がなく静かな空間だった。
昼になったので、ロバ車のお世話になり(1元)、市場の脇のバス乗り場へ戻り、大理へ帰る。


大理の「ハッピーレストラン」で噂の豚カツとオムレツを食べた。味は悪くない。この辺りでは、今まで全然会っていなかった日本人によく出会った。同席した若い男性は、もう3年ほど日本には戻っていないという。
夕食に出て、南門近くの土産もの屋の親子を撮る。写真を送ってくれと言う。博愛路や復興路をうろうろして、結局ララカフェで夕食。
マカオから来た、という若い夫婦と相席する。麗江を薦める彼らに「この後は上海へ寄るつもりだ」と告げると「おお、なんでまた上海なんかに(上海ファンの方には悪いのだが)」との反応。
田舎好きの私たちも大理にきて、その気持ちはよくわかったが、「いろいろな中国を体験してみたいのだ」と言うと「あちらは寒いかもしれないから気をつけて」と言ってくれた。食事は2人分で22元くらい。

第六日 大理~昆明

トイレに下りていくついでに、饅頭(の皮みたいなお菓子)と油条を買って帰る。風がとても強い。一日ツアーに参加してもいいなとも思ったが、夕刻のバスに間にあわないと面倒なので、三塔寺と下関のアルハイ公園に行くことにする。チェックアウトしてバイクを借りて三塔寺へ。cn0001
三塔寺はさすがに観光地らしい場所で、にぎわいがあった。大理石グッズを売る店が、塔の回りを埋めている。
大理に帰って郵電局へ行き、葉書を出す。航空便で一通2元3角。そこそこ高い。道で古枝君にばったり再会し、バザールで借りっぱなしだった20元を返す。3人で桑尼園(Guest House)の向かいにある「Salvador DALI」で昼食。調理場で材料を指さして注文する。もちろん3人とも「辛いのダメ」のジェスチュアを忘れずにつけ加える。

昼からは3人で下関へ行く。バスは1元2角、幹線だから安いのだろうか。アルハイ公園へ歩く。強風の上、けっこう遠い。3人とも「ロバ車を使えばよかった...」と客引きを自分たちで断っておきながら後悔する(帰りは乗った)。公園でボーっとするのが唯一の目的だったのだが、風がとてもきつく、湖畔では冷たくて立っていられないので、小山の上の、湖を見おろす東屋で横になってうつらうつらする。
古枝君は、旅先の風景をスケッチするのが趣味で、数枚描いているという。「中国は人が多すぎてなかなかのんびり描けなかったんですよ」と嬉しそうだった。

大理に帰って彼とは別れた。成都を経て香港、インドネシアへ向かうつもりだそうだ。バザールで「寒いから」と上着を買っていたが、どうするのだろう。
護国路で、毎日私に声をかけていた靴磨き屋さんに最後に靴磨きを頼む。しかし勝手に靴底の修理をしてしまい、案の定15元(靴磨きは1元5角)などと要求してきた。靴底が破れていたのは事実だったが、言われるままに払うのもばかばかしいので、全部込みで5元にしてもらった。
概して中国は定価の不明な(?)ベトナムに比べると、値段交渉が楽だった。
バスは7時頃、大理を出発した。夜半、休憩の後でいきなり公安の検査があり、切符をチェックされる。外国人はそれだけだったが、中国人客は工作証やら荷物の中身やら、細かく調べられていた。

第七日 昆明

6時頃、昆明汽車站に到着。歩いて昆湖飯店へ行く。ツイン152元の部屋に泊まることにする。
ここは入り口の黒板や外国人向けタリフのすぐ隣のページに、国内旅遊(中国人向け)の安い料金が出ていて、ちょっと悲しくなる。朝とはいえ真っ暗だし、初めてのまっとうな?中国式ホテルで緊張するし、夜行バスで疲れているしで、寝てしまう。
風邪気味で熱っぽくなり、薬局が開く時間になって相棒に熱冷ましを買ってきてもらう。
余力が残っていれば、と考えていた石林観光は諦め、昼過ぎから雲南省博物館へ出かける。
途中、宿からすぐの北京路の屋台でチャーハン(3元)とスープ(2元)を食べ、バスと徒歩で博物館へ。4階まであり、雲南省の少数民族を主なテーマにした民俗・歴史関係の展示が充実している。予想していたよりは濃い内容だった。日本人らしき人もちらほら。併設のショップの店員さんは日本語と英語の勉強をしていた。
東寺街の小吃屋台を流しながら徒歩で帰る。
フロントのミスで、ちょうど泊まった階の服務員が、私たちの部屋に別の客を入れようとしていたので抗議する。受付が、部屋番号の証明となる領収書に同じ部屋番号を書いてしまったようだ。出入証(鍵の代わりに渡されるカード)に部屋番号を書いておけば、このようなミスは無くなると思うのだが、そうしないところが中国なのだろう。
夕食は、ガイドブックに紹介されていたホテルの近くのシンガポール料理屋へ。若い人が多く、しきりに英語で話しかけられた。

第八日 昆明~上海~蘇州

5時半に起床。6時直前にフロントへ行く。6時前はドアは開いていないとあったが、行ってみるとドアの横に守衛のような人が寝ており、出入証と引き替えにデポジット(40元)を返却して鍵を開けてくれた。
タクシーはメーターは倒さず、空港まで30元だと言う。倍近いが、とにかく焦っていたので、乗ってしまうことにする。ノロノロ運転だったが、とりあえず空港には6時過ぎに着いた。
チェックインして搭乗券を受取り、なぜかそこだけ異様に混んでいる空港使用料(50元)の支払いを済ませ、2階で待合室に入る。セキュリティでは、チケット、搭乗券、使用料領収書、パスポートすべての提示を求められたが、X線はいい加減で、巨大な手荷物を持った人たちがどんどん通っていた。待合室に入ると「歓迎」と書かれた、紅いたすきを掛けた案内役らしき女の子がいたが、ほとんど無視されるか邪魔にされていた。朝早いためかしきりにあくびをしているところが、国際空港とはいえのどかで可愛らしい。アナウンスには日本語もあった。
搭乗のときはさぞや大混乱だろうな、と予想していたが、みな整然と乗り込んで、おとなしく席に着いた。搭乗した上海行き雲南航空の機材は737。機内食は包子と干し肉にデザート。なぜかパンダのトランプと梅飴がお土産として配られる。着陸前になってキャビンクルーが大きなゴミ袋を広げてゴミ回収に回ったのには驚かされたが。

11時前に上海着。空港の写真を撮るな、という注意をここで初めて聞いた。
民航バスで静安地区へ出る(4元)。そこから歩いて南の常熟路の地下鐵駅 へ。地下鐵(2元)で上海火車站へ。
駅前の龍門賓館で、一番早い蘇州行き切符を購入。2名で30元。なんと発車まで20分しかない。駆け足で改札を抜けてホームへ出る。
鉄道は、体験談やガイドブックで紹介された通りの雰囲気だったが、乗車した軟座は非常に座席間隔が広くて大きいのが印象的だった。ほんの1時間の上海滞在。慌ただしいといえばそうだが、思ったよりスムーズに進んだのが軽い驚きでもあった。
しばらく経って「次は服務員がお湯を配り始めるぞ」と思いきや、プラスティックのコップに注いだコーヒーを配り始めた。タダかな?と甘い考えでいたら、すぐに5元も徴収されてしまった。
コーヒーの後、これは予想通りにモップ掃除を始めた。2時過ぎに蘇州に着。
駅を出て左手に大きな2階建ての售票処があり、そこの2Fで明日の帰りの切符を買う。窓口の表示はいろいろだが、当天券、明天券を扱う窓口が決まっているらしい。客引きに寄ってきたタクシーの運ちゃんが「明天はこっちだよ」と、「団体切符」の表示のある窓口を教えてくれた。
切符を無事に買い、姑蘇飯店を目指して、1路バスで南下。十全街を東西に走るバスは工事かなにかの理由で運休中のようだ。南林飯店、蘇州飯店などを見ながら姑蘇飯店にチェックイン。ツインが250元。デポジット40元。今度は鍵をもらえる普通のタイプのホテル。

夕暮れが近かったので、網師園と滄浪亭を見学するだけにする。外文書店にはかなり古い日本の女優の写真集なども売っていた。cn0003
暗くなって、南門近くの西二路の食堂街まで足を延ばし、炒めモノとご飯を食べる。これも二人で10元しない安さ。包子も買って帰って食べた。

第九日 蘇州~上海

あいにくなことに雨が降っている。時間もあまりないので、庭園めぐりは次回とし、宝帯橋と盤門を観光することにする。
途中のデパートで傘を買い、南門汽車站まで歩く。13路バスを待つが全然こない。風と雨がきつくなるので、あきらめてタクシーを拾うことにする。ここも昆明と同じ赤いシャレード(だと思う)のような車体。日本語がやや話せる運ちゃんだった。
宝帯橋は、嵐のような風雨の中で歩いたので、寒いし景色はないしで散々だった。無念の涙を飲みつつ盤門へ行ってもらう。
「ここは、いいとこですよ」という彼の言葉通り、塔と橋とを従えた盤門は、とても風情のある場所だった。cn0004
タクシーには、いったんホテルを経由して観前街まで送ってもらい51元。観前街で、得月楼へ昼食に。
若い女の子の店員がお勧めの鶏の丸焼きは、とても柔らかくて飽きない味付けで二重丸。卵のスープと青菜の炒めものは、ごく一般的な中華料理で「濃さ」がなくてよく口にあう。だが、名物料理のメバルの姿揚げあんかけは、175元という法外な値段にも関わらず、餡にケチャップを使っていたようでちょっと幻滅した。その他の料理は、概ね妥当な値段で量も十分ありお薦めできる。名物にありがちな観光地料金だろうか。全部で250元近くかかった大半は、この餡かけの値段だった。

前日買った切符を持って蘇州站へ。今回はのんびりと脇にある軟席待合室から入る。暖房が効いていてソファがあり、一角ではお土産物も買える。
時間が近づくと、駅員がホームへ誘導してくれるのは、ベトナムの鉄道などと同じ。切符を見せるとホームを教えてくれる。どっちが前だから後ろだからと、ホームで行ったり来たりしていると、突然笛がなり、硬席改札が開いた。とたんにホームは人の山になる。
帰途の座席で前に座った老人は、引退した電子関係の企業の技師長とのことで、流暢な英語を話し、成りゆきで名刺交換もしてしまった。湖北省の住所と自宅の電話、「第四四〇四 電子工廠 副技師長」などと入った名刺をもらう。レーダーを作っていたという。
老人の通訳でときどき周囲の人も加わりながら、雲南や上海の話、日本の家族、結婚観といった当たり障りのない話をして過ごす。
列車はずいぶん遅れて4時前にようやく着いた。急いでタクシーでホテルへ向かうことにする。上海での残り2泊は、奮発して和平飯店を予約してあった。無事にチェックイン。まだ夕方だが雨が降り続いているので、今日はホテル内の探検にとどめ、行動しないことにする。cn0005

相棒が疲れて寝てしまったので、夜、人民公園近くまで歩き、雲南路美食街で麺類と串揚げの夕食。屋台街みたいなところだが、店の人がみな白衣を着ているのが不思議な感じの場所だった。街中では自助火鍋が流行っているようで、あちこちで見かけた。30~50元くらいで食べれるようだ。

第十日 上海

今朝は晴れた。とりあえず、近場のバンドへ。石畳の整備された綺麗な道を南へ向かい、途中でパンの朝食。十六碼頭まで下ってから豫園方向に入る。パンだけではちょっと足りないので、この辺の路地の屋台で、麩のようなものが入ったお粥と包子を食べる。「これ」と黒板を指さしたのだがおばちゃんに「あーだめだめ、こっちにしなさい(中国語を推測)」と言われる。まぁ、美味しければなんでもいいのだが。cn0006
豫園へ。いやに賑わっている通りがあると思ったら、子供用品や文具小物の屋台が出ている福佑路だった。身動きできないほどの人をかき分け、福マークのシールと、お正月っぽい男の子と女の子の紙人形をお土産用に買う。300メートルほど行ったところで、ついに動けなくなり、撤退する。

豫園は思ったより狭いエリアだった。庭園は外国旅客15元というのを見て躊躇ってしまい、そのまま入らずじまいだった。リンゴ(ミカン?)飴をかじりながら有名な南翔饅頭店に何度か並ぶが挫折。隣の隣にあった回教徒向け食堂で、牛肉の小龍包を食べてしまう。やっぱり肉汁は少ないが、なかなかいける。
豫園から旧県城内を歩き回る。至るところに市場があり、なぜか水がボタボタ垂れる洗濯モノが干してある。時間帯が悪かったのか、そこかしこでおばあちゃんが馬桶(簡易トイレ)を洗っている。老西門と留園を訪れたが、留園は遊園地と化していて、塔の下屋根をかすめて遊具が回り、池にはボートが浮かび、傍らにはゲームセンター(ここは最新のビデオゲームがかなりあった)のプレハブが建っていた。だがそこかしこに市場や古い街並みがあり、いい雰囲気だった。
碼頭に戻って黄埔江をフェリー(4角)で渡り浦東地区の名所、電視塔へ上がってみる。50元。上海市の全体が見渡せる。最初にここへ来て計画を立ててもよかったかもしれない。
西方向は、地平線の彼方までビルが陽炎のように林立し、東京さえ及びもつかないほどのこの都市圏の広さを実感させられた。

夕食は、南京東路を山東路に南に入った上海料理店(老正飯店?)で取った。蘇州でお金を使ってしまった関係から、150元くらいで、とわがままを言い、英語は通じないが親切な服務員のおばさんにお薦め料理を選んでもらう。
小蝦、麻婆スープ、田鰻の醤油炒め、青菜の炒めものとご飯(サービス)で、ほぼ予算通り。
食後に、新装開店した北京路の友誼商店と、南京路の百貨店でお土産を漁る。大規模店は9時、10時まで営業しているところがほとんどで、ゆっくり見ることができた。
最後に夜の外灘を散歩。10時をまわっているためか、アベックの姿が目につく。バンドの建築物は色とりどりにライトアップされていて、いい雰囲気だった。

第十一日 上海~成田

空港に行くのに、静安路に出て、いったんは民航バスに乗ったものの、発車まで時間があるため、退票してタクシーにする。バスの発着所の人は飛行機の時間を聞いてくれたり、退票したらタクシーを掴まえてくれたりと、なにかと親切にしてくれた。
空港まで、と言うと、タクシーの運転手は「何時に飛ぶんだ?」と聞く。案外時間がかかるかもしれない、と不安を感じていたので離陸時刻ではなく30分ほど前の時間を伝えると「おお」と言うが早いか飛ばし始めた。これほど恐い運転は、バリ島以来だったが、こっちも「え?飛ばさないと間に合わないくらいの距離なの?」と焦り、押さえるに押さえられず、空港に着いてしまった。途中渋滞があり、運ちゃんの判断が正しかったこともわかった。

空港税のことを調べていなかったため、タクシー代を払うと、手持ちの人民幣が足りず、空港で両替するはめになった。
しかし、中国銀行が税関の向こう側にしかなかったため、税関の入り口で事情を話し、税関・チェックインカウンターへ通してもらう。ようやく開いた銀行で不足の70元ほどだけを両替して、税関を戻って空港税を支払い、再度、もぎってもらう。税関入り口の人は交代していて私たちのことなど聞いていないらしかった。
出発待合室内では、人民幣表示になっているが、円も使えるようだ。日本人のおばちゃんが元の再両替窓口で万札を崩してくれない、とぼやいていた。定刻からかなり遅れてはいたが、無事に飛行機は離陸し、幸運に助けられた旅行は、なんとかその日程を消化することができた。

Taiwan (ROC) (Jan.96)

96年1月、一人で台湾(台北/鹿港/台南)を旅行しました。

第一日 東京~台北

羽田の国際線ロビーに行くのは初めてだったので、かなりアクセスに手間取った。なんかうらさびしい印象がある。
搭乗したのは中華航空CI-101(17:05)。途中で一緒になった台湾のビジネスマンと他愛のない話をしながら搭乗。

台北着後、駐機スポットが空いていないとのことで、しばらく待たされ、かなり入国が遅れた。
彼が、適当なホテルへ車で送って行ってあげるというので、とりあえず松山機場行きの國光号へ。着後、松山機場へ迎えにきてくれた彼の義父の車で彼(義父)のアパートへ。
こじんまりしているが、外見からは想像できないほど、中は綺麗なアパートで、若い奥さんに、土豆仁湯をごちそうになる。
11時、彼が車で林森北路(農安街)の維也納大飯店へ送ってくれた。シングル1480元。ここに泊まることにして、日本での再会を約して別れる。
フロアーの服務員は男一人とみるや、女性は要らないのかとうるさかったが、12時を回ると何度か電話が鳴っただけで済んだ。ホテル自体は申し分なし。コレクトコールで自宅に連絡。ついでにリコンファームもしてしまう。

第二日 台北~鹿港

9時頃、中山北路三段~民権路周辺を歩き、晴光市場?周辺の屋台で巨大な包子(15元)と魚丸腸湯(40元)の朝食。ホテルに戻ってチェックアウトしようとすると、電話代とミネラルウォーター132元を請求される。
国際通話はコレクトコールだったはずだし、なにも飲んではいない。「チェックしてくれ」と言うと、一転して「オーケー。ノーチャージ。バイバイね」と言う。

民権路を西に進み、台北大橋の付け根から古い街路へ。建物は古い。どことなくペナンの中国人街を彷彿とさせるコロニアルな印象がある。
一段と二段の境の近くにある煉瓦づくりの消防署がなかなか洒落ている。漢方薬屋と乾物屋が多いので、土産をまとめて買うのにはいいかもしれない。
延平路を通って駅へ。12時5分の復興号で台中へ向かう。247元。 駅舎は巨大で綺麗。1Fが出札口でB1が改札、
乗場(月台)はB2F。2Fにはショッピングセンターがあったので、ここで大台北公車指南册(60元)を買う。ちゃんとライセンスされた「地球の歩き方」ガイドもあった。B1で駅弁と檸檬茶を買って80元。
電気機関車に曵かれる客車だが、車内は日本の特急列車と同じ。

台中着後、火車站を出てすぐ東の、円形をした公車南站へ行く。
鹿港行きが見つからないので、さらに道を歩くと、その隣にある彰化客運の窓口で、鹿港行きを買うことができた(70元)。
バスは途中、彰化市に寄ってから鹿港へ入る。彰化市はこの地方の中心都市の一つらしく、ガイドにはあまり載っていないが賑わっている。どの方向から鹿港に入るのかよくわからないので、住居表示を何となく見ながら、適当なところで下りる人にくっついて下りる。17時。
ちょうど鹿港鎮の中心、民族路と中山路の交差点だった。そのまま中山路を下って、全忠旅社にチェックイン。バス・トイレ共同300元。「日本人学生さん、みんなこっちに泊まる。みんな観光」とのこと。
暗くなる前に、九曲巷から龍山寺へ歩く。巷は思っていたより綺麗に煉瓦が敷かれている。十宜楼や意楼など、巷の煉瓦壁越しにちらりと見える建物が趣深い。
中山路には、仏具関係を売る店が本当に多く、華やいだ雰囲気は少ない。夕暮れの龍山寺は、本当に美しい。塗りも剥げかけていたり、色もくすんでいるのだが、落ちつきがあって良い。敷地はさほど広くないようだが、縦よりもむしろ横への広がりが感じられる建物で、安定感がある。
暗くなったので、一旦、宿に帰ってから夕食に出かける。実は翌日出かけた第一市場や天后廟など、街の北へ向かえばよかったのだが、それに気づかず、彰化方向に下って行ってしまった。
彰鹿路の方には、文武廟辺りに屋台があるほかは、数軒の店があるだけで「ずいぶん寂しい街だなぁ」という印象を持ってしまった。結局、その辺りの水餃子の店で牛肉麺と水餃子を食べる。何をまちがえたのか水餃子が山のように出てきてしまい、60元のはずが90元の夕食になってしまった。セブン・イレブンで台湾ビール(22元)を買って帰る。

第三日 鹿港~台南

7時過ぎに第一市場周辺へ出かける。ここは市場の建物もあるが、その周辺の路上全体に小吃店や屋台もあって活気がある。昨夜、ここにくればよかったとちょっと後悔する。
アンコ入り車輪焼(野菜入りもあった)2個(10元)と、豆漿(10元)、油条(6元)で朝食。油条は、昨年行った雲南で食べて以来の味で懐かしい。
九曲巷の北側に繋がる南靖宮や隣の老人會會舘の巷は、とても雰囲気がよい。天后宮を回って、宿に帰りチェックアウト。
瓶楼の脇を抜けて、鹿港民俗文物館へ行く。 立派な洋館で庭もあり、家族連れや観光客で賑わっている。
展示はしっかりしていて、巷に点在する各楼の謂れや、民具などが体系的に見られるが、130元はちょっと高いかな、と思う。入り口前で鹿港名物の牛舌餅を売っているが、6~10枚入りで60元ほどする。
ぶらぶら歩き、中山路沿いにある彰化客運站から、彰化行きに乗って鹿港を発つ。
昼に彰路火車站に着く(彰運で33元)。駅前の自助餐庁で、昼食を取り、目の前の火車站へ。12時29分発自強号1005次で台南へ。約1時間半、325元の移動。

少し体調が良くないので、台南に着くと、ガイドにあった駅前の一楽大飯店へすぐチェックインする。心持ち気温が高いような気もする。5Fまでの部屋はシングル780元だったが、服務員のおばさんが6Fなら700元と言って案内してくれる。5Fまでしかないエレベータのモータがあり、ちょっとうるさい分、安いらしい。
休憩してから、赤嵌城(プロビデンシャ城)へ。家族連れで賑わっている。お隣の天后廟を見てから、孔子廟まで歩く。廟は既に閉まっていたが、手前の2本のガジュマルの樹が巨大ですばらしい。黒いリスのような小動物が何匹も走っている。
中正路の度小月で、坦仔麺(小)+卵を食べて戻る。50元。思っていたよりこぎれいなところだった。(小)だと食事には少ない。

夜、西門路の小北夜市へ行くことにする。
ボーリング場の少し先に卸市場のような建物があり、屋台がたくさん入っている。木瓜牛乳(40元)をもらってぶらぶら。
棺材板(40元)、田鰻と意麺の炒めモノ(60元)を食べる。田鰻は、上海でも醤油味に炒めていたが、これが一般的な調理法なのだろうか。上海で食べたものよりかなり大きく、ぷりぷりした食感があった。
サトウキビ(15元)をかじりながら帰る。

第四日 台南~台北

朝食は魚丸湯(30元)。つみれに関しては日本のモノの方が口に合う気がする。中山公園へ散歩に行って帰ってチェックアウト。
市政府の観光課でガイドマップをもらう。ここはガイドブックにもあるとおりとても親切で、安平に行きたいと言うと15路バスに乗ればいいと教えてくれた。15路を探して昼前に小西門の手前の小ロータリーまでくるが、疲れて昼食。
天香菜粽肉粽専家というおばちゃん2人がやっている店で肉粽(30元)菜粽(25元)、油条の入った味噌湯(10元)。
満腹になると急に意欲がなくなり、民生緑園から成功路まで戻ってきてしまう。公園路に入ってすぐのところにある老街茶房で休憩。喫茶店はちょっと侘び寂調のおしゃれなところが多い。若い人がよく溜まっている。2階の窓際席は、ちょっとボックス型になっていて、ずっと粘れそう。
この店は「老街茶房」という機関紙のようなものを出していたりして、従業員人気投票など、まさに日本の喫茶店のノリだったのだが、結構、高かった。
どうせならと、一番高かった紫蘇梅茶の中サイズ(135元)を頼む。中サイズはまさに中ジョッキだった。小(100元)で良かったかもと悔やむ。梅味の霊芝茶のような味。
置いてあったガイドブックを読んでいると、やはり安平区に行きたくなり、あらかじめ列車の切符を買っておき、駅前のバスターミナルから行ってみることにする

バスは冷気車で15元。もちろん冷房はついていないのだが。他に乗客もいないので、運ちゃんに「安平古堡」と書いて降ろしてもらう。20分くらいで安平の天后廟の前に着いた。
安平古堡(ゼーランダ城)はのんびりした公園で上がると運河や台南市街地の見晴らしがなかなかよい。プロビデンシャ城にしてもここにしても、世界史の授業で教わっただけの場所を、実際に訪れてみるのは感慨深い...などと言ってもオランダ時代の遺構は、わずかに土塁や煉瓦と漆喰の壁くらいなのだが。
周囲にかつての商館跡があるらしいので、歩いて回ってみる。商館とはいっても寂れた洋風の別荘のようにこじんまりしていて可愛らしい。
運河のそばは田園地帯で、のどかな雰囲気。帰りのバスは待っても待ってもこない。おじさんが見かねてタクシーを停めてくれ「これに乗った方がいい」と中国語(推定)で言う。駅まで150元くらいと言うので乗ったが、メーターを倒してくれない。どうやら150元くらいというのを値段交渉と思ったようだ。なんとかメーターを倒してもらうが結局、135元、たいして変わらなかった。基本料金が書かれてある50元から60元に上がったらしく、それにメーターが対応していない(という事情を説明するのが面倒)、というのも理由らしい。

17時7分発、自強1102号で台北へ向かう。
21時15分、やや遅れて台北站着。そのまま中山北路の金星大飯店へ。えらくフロントが混みあっていると思ったら、スペシャルディスカウント中とのことだった。1600元の部屋が1008元だという。ここに泊まることにして「台湾料理の夕食」とやらを食べに林森北路近くの梅子レストランに行ってみた。
が、予想に反して綺麗な場所で、入り口には案内の店員まで立っている。戸惑いながら2階へ。ビーフンと青菜の炒めモノ、腸湯で370元。日本人がたくさんいる。

第五日 台北

国賓飯店の北の屋台で卵焼きと豆乳を食べる。公車指南では、国賓飯店前のバス停から故宮行きの213路が出ていることになっているのだが見あたらない。国賓飯店のコンシエルジェに聞くと、260路で中正路口まで行き、304路に乗り換えればいい、とのこと。その通りにする。こちらのバスは12元。
乗って隣の学生風の女の子に「中正路口」と見せて、教えてくれるように英語で頼む。わかってくれたようだ。
中山路を圓山を過ぎて北上し、ようやく右折したところで降車。バス停は福國民小となっていたが、すぐに「故宮」と書いた304路が来てみなぞろぞろと乗り込む。
運転席の上に「上車収票」と書いてある。先払いのことだろうか。乗り込むと「分段點 中正路口」と書かれたカードをもらった。車内は若い女の子でいっぱいになっている。途中の「東呉大学」で半分が降り、残りは終点の故宮前までいっしょだった。

入場料は50元。1Fから4Fまで多くの展示室があり、じっくり見るには2日間ほどはかかりそう。ガイドも多く、説明を小耳にはさむこともできるのだが、ツアー客はとにかく回るのが早い。
歴史外観を解説する部屋、甲骨文字の部屋から始まって、最も充実している書画と陶磁器、翡翠まで、一時間程度で回ってしまうようだ。
書画は日本人と中国人との好みの違いがよくわかる。陶磁器は分類が行き届いていて、見やすい。解説は各部屋に入るところに説明プリントが置いてあるほかはあまりなく、モノをじっくり見るタイプの展示になっている。書では「西湖十景」、陶磁では「福寿泰康(?)のデザイン」の特集展示が興味深かった。翡翠で有名な「白菜に留まったバッタ」は二種類展示されていた。

2時過ぎに出て、徒歩で中正路口まで歩いたがことのほか距離があり、おまけに寒いので、バス停の前のロッテリアで遅い昼食を取る。中は、試験勉強する 学生で埋め尽くされている。
ホテルに戻り、預けていた荷物を引き取って台北站横のバスターミナルへ。
6時に空港に着いたら、なんと帰途のCI便はもう離陸寸前になっていた。
17時と7時を間違えていたらしい。どうしようもないのでカウンターで明日の便に変更してもらう。会社と家に国際電話をいれ、すごすごとホテルへ。もう一晩、泊まることになってしまった。
長春街の北、林森北路辺りの店で意麺(20元)、扁食湯(30元)を食べておとなしく寝る。

第六日 台北~東京

12時の離陸なので、朝7時に起きてチェックアウト。朝食もそこそこに空港行きの國光号に乗り込み、無事空港へ着く。
台湾は日本同様、都会的で便利だった。台湾の人は英語は苦手な人が多いものの、一般的に日本人より親切でマナーを守る人も多く、快適な旅だった。もっともその印象は、私の短い旅行の中ではこの国の人たちの心の琴線に、十分触れることができなかったせいかもしれない。

UK (May.96)

96年5月中旬、一週間ほどの日程で、イングランド中部・コッツウォルズ地方とウェールズ南部へ旅行しました。 往復航空券とレンタカー、現地3泊を手配。

第一日 東京~London/Blockley

イギリスは夏時間になっていたため、時差は8時間、Heathrow着は16:45になった。 HertzでFiatt Puntoを借り、急いで出発。あわてていたためか、M25の逆方向に乗って引き返すはめに。なんとかA40、A44に乗り換えてOxfordを通過。ほぼラウンドアバウトの度に方向を間違えつつも、なんとかMoreton-in-Marshを経て、薄暗い中、BlockleyのLower Brook Houseに着く。予約の電話通り、 20:00の到着になってしまった。
オーナーのAnn Porter-Milesさんから「この先にPubがあるから食事するといい」と教えられて、Pubへ。プラウマンズランチとパスタ、ビターとラガーで夕食。 £10くらい。満腹になって戻る。 Lower Brookの部屋は、「素敵な部屋」に出てきそうな可愛らしい飾り付けをされていて驚いた。オーナーは、雑貨や骨董のオークションでいろいろな小物を集めてくるという。しかし、欧米人にはこのサイズのベッドは厳しいのではないだろうか。

第二日 Blockley ~ Chipping Campden ~ Warwick

朝食。サーモンとキッパーを食べる。キッパーは鰊の薫製で、とても油っぽい。あいにくの雨模様。先週まで4週間も降らなかった、と聞き、ちょっと残念。でも曇っていても情感のある村だ。人口は2,000人くらいらしい。雨が上がらなかったら、丘陵の村よりStratford-upon-AvonかWarwickなどの街に行った方がいいよ、とのアドバイスを受ける。
とりあえず真北にあるChipping Campdenの街を目指す。National Trust管理の古いマーケットプレイスを中心とした、ちょっとした田舎街の風情。Blockleyから向かうと途中に茅葺き屋根が綺麗な小さな村、 Broad Campdenがある。 TICで、Walking Mapを買う。ここで日本人旅行者の家族を一組だけ見かける。 Walking Mapに沿って、怪しい空模様の下、Dover's Hill に登る。丘の上は見晴らしが良かったが、風と雨がきつくなり、早々に退散する。車で、数マイル北にあるHidcote Manor Gardenへ向かうことにする。
駐車場にはかなりの数の車があり、それなりに見学者で混んでいた。桜が満開で懐かしかったが、薔薇には早く、ポピーなどは蕾もいいところ。勿忘草など小さい花が間隙を埋めるべくがんばっていたが、ちょっと「シーズンの谷間」という趣で寂しい。ざっと見て、National Trust経営の付設レストランで昼食。ここは観光客ばかりなので気楽だし、値段もそこそこで便利。ショップで絵はがきなどを買って帰る。依然として憂鬱な天気なので、SnowshillやWinchcombeなどに行くのは諦め、 Warwickへ行くことにする。
16:00着。急いで城を見学する。眼下のAvon川の眺めが美しい。町中や競馬場をぶらぶら歩いて宿へ帰る。

新しい部屋(当初は一泊の予定だったので、二泊目を頼んだときに、別の部屋に移ることになった)は、3階の緑色系でまとめられていて、 Annの私室のとなりだった。斜めの部分は屋根で、裏から小鳥がコツコツつつく音がする。ここの廊下も綺麗に飾り付けられている。
昨夜のPubへ行くが、今日は満員(満席どころではなく立ち席も含めていっぱい)。しょうがないのでHigh Streetにある、 Crown Hotelのレストランへ行く。村中を歩いたわけではないのだが、どうみてもこの2軒以外に、夕食が取れそうな場所が Blockleyにはないようだ。 Crown Hotelは、上等な食事ではあったが、Hotelのレストランらしい価格だった。味は悪くはない。魚にしても鶏肉にしても火を通しすぎてしまうのは、イギリスの特徴なのだろうか。

第三日 Blockley ~ Slaughters ~ Bibury ~ Gloucester

今日は、Hatton Courtに向かう。Gloucesterに向かうと話すと、Annは首を振ってあそこはなにもないし、そんなによくない場所よ、と言う。もとより日中一杯はCotswoldsを回る気だったが、それならここに3泊していけばよかったかな、とちょっと後悔する。出がけに、昨日貸してくれた昨年度版の道路地図が役に立ったと礼を言うと、「なら持って行きなさい」とくれてしまった。感謝。再度、訪れることを約して出発する。

Cotswoldsのスポットとしてはマイナー(?)だが、Moreton-in-Marshと、Chipping Nortonの間にある、Rollright Stonesという、鉄器時代の環状列石遺構を見に行く。 A44から、Little Comptonという集落を抜けてすぐのはずなのだが、見つからない。 Farm Shopで、場所を尋ね、注意深く戻ると、それらしき木の門が道端にあった。反対側をよくみると、なんと2メートルほどある石が道端の草原の中に突き立っていた。しかしわかりにくいなぁ...と停車してぶつぶつ言っていたら、他にも「え?ここなの?」という調子で車が集まってきた。地図に載っているだけあって、やはり来る人は来るらしい。
草原の大石(King stone)はとにかく、反対側の列石 (これがRollright Stonesらしい)は、茂みの中なので見落とすのが普通だろう...。と思っていたら、やおら止まった車からおじいさんとおばあさんが降り、おじいさんが「よいしょ」とばかりにベニヤ板にマジックでRollright Stonesと書いた 道標を立て、ニコッとして「おはよう」と一言。その場にいたみんなも、これには思わず笑ってしまった。
近く菜の花畑の真ん中のFootpath沿いに、もう一つ列石遺構がある。

A436を使って、Cotswoldsの中心の一つ、Stow-on-the-Woldへ向かう。が、街は混みあっていて、気がつくと走り抜けてしまっていた。しょうがないので、南のBourton-on-the-Water へ行くことにする。こちらはStowほどごみごみしてはいないが、それでも観光バスが着いていて、いかにも観光地らしい賑わいを見せている。街の中心部である小川 と自動車博物館の観光写真スポットを見て、TICでWalking Mapを買う。
実はここからUpper/Lower SlaughterへのWalkingを考えていたのだが(歩いていた人も多かった)、時間がないので、Lower Slaghterに車を置いて、一時間ほどで回れるUpper Slaghterとの往復にする。このFootpathはとても景色がよくてお薦め。牧場の羊の中を通って着いたUpper Slaghterは、10分もあれば一周できてしまう鄙びた雰囲気の田舎で、草原をバックに静かに立つ Lords of the Manor Hotel(ここは日本のガイドブックにも紹介されていた)や、壁に日時計がついている石造りの教会などがある。
遠くからみると、風景全体が絵本の挿絵かなんかじゃないかと思う。この道をWalkingをする人もなかなか多く、みな思い思いのところで座って休憩したり食事をしたり、まさにハイキングの風情である。

13:00になってしまったので、Cotswoldsの目玉であるBiburyへ行く。William Morrisがもっとも美しい村、と讃えた曰くつきの場所でもある。が、Fosse Wayを南下したものの、ちょっと寄り道をして、Northleachの北の小さな村(Farmingtonや Sherborne,Windrushなど、沢沿いのやっと地図に載るか載らないかの小さな村)を抜けて走っていたら、Burfordまで行ってしまい、戻る羽目に。
B4425でBiburyに入り、運良くArlington Rowの前に車を置く。当たり前だが観光客が多い。Swan Hotelの前はたいへんな賑わいで、予想とずいぶん違う。
怪しい雲行きがちょっと心配だったが、とりあえずArlingtonの丘の向こうの牧草地を回るFootpathを歩き始める。案の定、Bibury Court Hotelの裏手、水車の美しい集落のあたりで雨が。しかもフィルムも切れ、無念..。すぐに上がった雨の後、Abington,Winson,Calcot,Coln St.Dennis などのこじんまりした集落を辿ってFosse Wayへ戻る。

最後にChedworthのRoman Villaへ向かうことにした。道は起伏が激しい上に一車線。しかもようやくたどり着くと、月曜日はおやすみだった...。まあ、ドライブということで。
A417で、 Gloucesterに入り、宿のあるUpton St.Leonardへ。ここは小高い丘の上で、M5方向がよく見える。ホテル自体は残念ながら「郊外の洒落た都会的なホテル」といった趣。決して質は悪くはないのだが、観光客向きではない。これならもっと高くつくけれど、Cotswolds域内のManor House に泊まってもよかったか、と思われた。せっかくなので、くつろいで食事を楽しむことにする。

第四日 Gloucester ~ Ross-on-Wye

朝食を取って出発。ゴルフ場の中にあるPenswick Beaconに登る。ゴルフ場といっても柵もなくカートも走らなければ瀟洒なクラブハウスもない。
長距離Footpathとして有名なCotswolds Way (BathからChipping Campdenまで続いている)も中を通っている。丘に登り切ると360度の視界が開けた。当然風もかなりきつい。すぐ下に人の気配がすると思ったら、そこがこのホールのグリーンで、おじいさん2人が淡々と毎朝の日課のように、ラウンドを回っていた。まるでゲートボール感覚である。

下りてPenswickの街へ。のんびりした街だが、それなりに賑やかで、丘陵地帯の村とはまた趣が違う。 TICのリストには、たくさんの日本人の名前があった。石の色がやや灰白色っぽくなってきて、あの煤黄色(蜂蜜色)の壁とはちょっと違う。
M5から再びM4に入り、Severn川を渡る。すぐに下りてChepstowへ。Wye川河畔に建てられた、巨大な Chepstow城を見学する。Walesで最初に見学した城である。中庭の芝生でお弁当を食べている人もいる。続いてWye川沿いに北上し、Tintern Abbeyへ。
Walesは、道の感じや植生が日本に似ている気がする。山がちなせいもあるのだろう。道幅もそんなに広くなく標識も気持ち少ないようだ。 Tintern Abbeyは修復中だったが、社会見学の小学生で賑わっている。すぐ先にあるTinternのOld Station(昔の鉄道駅の跡)は、駅舎がレストランになっていて屋外で食事ができる。ここでチキンカレーを食べる。わたすげが激しく飛んでいてのどかな風情。駅舎の向かいの信号所跡 の2階では、おばあさんが絵を売っていた。

Monmouthに入ろうとしたところ、街の入り口で大渋滞に出くわす。こんな田舎でいったいなにが?といぶかっていると、前から歩いてくる人(買い物帰りのおばさんとか散歩しているおじさんとか、普通の人)が、前の方から一台一台の車になにか説明している。
曰く「凄い事故がこの先の交差点で起こってしまって、もう3時間も通行できない。話によると6時までは動かないそうだ。」とのこと。「どこまで行きたいんだ?」と尋ねられ、Ross-on-Wyeだと告げると「それならここを戻ってここを回ればいいよ」と親切にも教えてくれる。さして慌てたようでもなく当然のことのように、礼を言うと最後に「My pleasure.」と笑顔を添え、悠然とやってくれるのだからこの国は凄い。まぁ、ロンドンではこうはいかないのだろうけど。

Monmounthは残念だけど諦めて、Dean Forestの真只中を迂回して、Ross-on-Wyeへ向かう。走れば走るほど信州の高原みたいなところだなぁ、という印象が深くなる。さして迷わずにRoss-on-Wyeに到着。街はWye川の河岸段丘(かなり急な崖である)上にある。いかにも鄙びた宿場町といった風情で、さほど小さいわけではないのだろうが、なんとなくコンパクトな印象を与える。
崖を下ったWye Streetにある、The White HouseというB&Bに宿泊することにする。道を戻って、南にあるGoodrich城を見学に行く。Goodrichの村から小高い丘を登っていくと赤茶色の砂岩でできた城が見える。丘は崖になってWye川に面しており、ここからのWye川の景色もなかなか綺麗。風化した城壁は堀の底の巨大な岩盤の上に建てられていて、なかなかの迫力がある。
Rossに戻って散策。Prospectと呼ばれる教会横の公園からの眺めは、美しい。ここは17世紀に激しい黒死病の流行にあっていて、そのときの墓地が教会の周囲に静かに広がっている。またProspectの隣のRoyal Hotelは、昔の城域に建てられていて、ホテル内の由緒ある建物などのツアーをいつでもやっている、とのこと(時間がなくて見られなかったが)である。夕食は、マーケットプレイスのある中心街の並びのPubで済ませる。地元のバンドがカントリーギター風の生演奏をやっていた。欧米人(Offa's Dikeを走破しようとするバックパッカーがたくさんいる)以外の観光客は珍しいのか、ずいぶんジロジロ観察されてしまった。

第五日 Ross-on-Wye ~ Raglan ~ Abergavenny

朝食後に、The White Houseのオーナーのおじさんに、Walesでの行き先を相談する。「車があるなら、RhadarからEllan ValleyへドライブしDevil's Bridgeに抜ける湖畔のドライブは素晴らしい。」素晴らしい、とは言わず、そこでおじさんは片手の指を口にあててチュッと音をたてて開いてみせる「投げキッス」みたいな仕草を繰り返した。
「Valley近辺は値段が高いから、西岸(!)に抜けて、海沿いの町で泊まりなさい。その後で、 Betws-y-Coedへ行って、Horse Shoe passを見るといい。ここも (チュッ) だよ。」残念ながら、そこまで日程に余裕がないので、おじさんの提案は次回(いつのことかは未定だが)の計画として、Raglan城を見てから、Brecon Beacons National Parkの入口にあたるAbergavennyへ向かうことにする。

Raglan城は、A国道のすぐ側の見晴らしのいい平原にある。他の城と違って装飾的で多角形を多用したデザインは、この城が中世晩期の建築であり、設計者がフランスの影響を受けていたため、との説明だった。この城も、他の多くの城同様、WalesからHereforedshire/Gloucestersgireへの侵入を防衛するために築かれ、清教徒革命中は王党派の拠点として機能したそうだ。そしてまた他の中世の城塞と同じく、クロムウェルによって破壊されてその使命を終わっている。空は曇り、豪雨とまではいわないが、かなりの強風・強雨なのに、ここでも出くわしたウェールズの子供たちは傘どころか帽子もかぶらず平然としている。

AbergavennyのTICで、暖を取りながら、リストから宿を選ぶ。条件は「安くて、町からそこそこ近い場所」。で選んだところは、Try-y-BrynというCottage。町中から、クリケットコートやレジャーセンターを抜けて北に向かう。道が細くなったところで左折して Sugar Loaf Mountainの尾根を登って行ったところにあった。とても眺めがよくて非常に満足。正面にSkirrid Fawr Mt.を見て眼下にはAbergavennyの町が見える。その目の前の谷を、たまに列車が走っていく。
週貸しで£150、朝食つき一泊£18から。夕食も£10.25でアレンジしてくれる。 cottageは、木炭をくべるストーブとガスストーブ、電気暖房が入っている。トイレとシャワーは携帯型の簡単なものだが、キッチンには食器やナイフなども揃っている。ただタオルやアメニティ用品などはない。いわゆる貸山荘に近い。TICの分類ではSelf-Cateringとなる。ソファとダブルベッドがあるので、大人3人は寝ることができる。もちろんTVもある。窓際にテーブルもあるので、書き物をするにもいい環境だと思う。
オーナーは、Christopher & Sandra Belcham夫妻で、他に犬が数匹、ポニー、ロバ、羊、鶏たちがいる。クリスはエンジニアだが、今は会社勤め半ば、牧場およびB&B経営半ばといったスタンスで仕事をしているという。昨日、フランス旅行から帰ったばかりとのこと。夕食を頼んでおいて、Abergavennyへ。
St.Mary's Churchでは、14世紀から16世紀にかけてのこの教区の支配者一族を型どった、珍しい木彫の修復現場を見せてもらう。横たわった人物が足下に犬や悪魔などを敷いているモチーフは、どこか東洋的でもあり、面白かった。Safewayでお菓子やお土産にするジャンクフードなどを買い込む。
8時から家で夕食。帰宅したばかりで羊を捌いてないため、鶏肉とのこと。Walesでは、大部分の羊は羊毛ではなく食肉用に飼育されているそうだ。サンドラが、明日、Newportで男声合唱のチャリティ・コンサートがあるが、行きたいなら券を取ってあげる、と言ってくれた。Walesの男声コーラスは有名なので、お願いする。
仕事や旅行のことなどをいろいろと話すうちに、時計は22:30をまわる。おやすみを言ってcottageへ引き上げた。落ちついた雰囲気の中で、手紙を書いて寝る。

第六日 Abergavenny

天候は晴れ。今日はSugar Loafに登ろうと計画している。600m弱しかない山だが、そこそこ距離がありそう。
Deriと呼ばれる、小型の樫の木が延々続く美しい林を抜けて尾根に出る。ここはNational Trustの管理地になっている。
Deriのあるこの尾根と、沢を挟んで向かい側の尾根の間、St.Mary's Vale と呼ばれる谷間には、小さな民家がいくつか見える。絵本の中のような風景だ。イギリスの山はみんなそうなのか、ある程度上からは、林が刈払われて低木しか生えていない。尾根の上を大きく迂回して、左前方の嶺へ至る道筋がずっと続いている。
林を抜けると風がきつい。尾根の上は牧場と荒地になっていて、そこかしこに羊がぶらぶらしている。宿の裏口から、ずっと先に立って道案内をしてくれる犬が、道筋に入り込んでいる羊を見つける度に追い払う。
道を教えてくれたサンドラが言ったように「あんなところまでたどり着けるのか?」と思っていた嶺も、徐々に大きくなり、一時間半を過ぎる頃には、最後の岩場に取りつくことができた。平たい山頂に立つと、吹きっさらしの風の中、Abergavennyの街が遥か下に見え、一方にはこの山よりずっと高くて深い、Black MountainとBrecon Beaconsの山並みが遠望できた。
天候が変わりやすいことを除けば、日本の山などとは違って道中も展望が良いので、簡単なハイキングに最適である。道は何本かあるが、見通しがよいので、自分が下りるべき尾根筋を間違わなければ問題はないと思う。昼を回った頃に、ようやくcottageに帰り着く。着替えて休憩。戸口に昨夜頼んでおいたチケットがある。 Abergavennyへ出る。

Grasshopperという名前のレストランで遅めの昼食を取り、手紙を投函してから出発。まずは を経てNewportからCardiffへ。おみやげ品を買いにCardiff城の周辺を回るため。途中でBelcham夫妻にも教えてもらったBig Pit(石炭鉱山)のあるを通る。ロンダ渓谷の街で、色付きレンガをモザイクのように配した家の並びがとても美しい。
National Trust 管理のレンガ作りの巨大な製鉄所跡なども道から見えた。時間があれば寄りたかったのだが、雨がひどく、とりあえずお預けにしてしまった。その後、予想外に Cardiffに早く着いてしまい時間が余ったので、ほんの少しでも寄ってくればよかったと後悔する。
NewportからM4でCardiffへ。予想していたより時間がかかった。おまけにさすがにWalesの首都だけあって、街も大きいし、人や車も多い。ロンドン以外のイギリスの大都市を見るのは初めてなので興味深い。城へ行くが、風雨がひどいので城門向かいの土産もの屋で、お土産を買う。さらにちょっと駅の方向に戻ったCastle Archade内のLove Spoon Shopにも立ち寄る。こちらは専門店だけあってやや高いが、品ぞろえも豊富。いくつか買い求める。

Newportへ。会場のLeisure Centerがどこかわからず、近くに止まっていた車に先導してもらう。 City Centerと道路標識には出ている場所で、屋内プールやスポーツジム軽食を取れるカウンターなどがある。市民会館のノリ。ホールへ入ると、そこはバスケットなどができる板張りの体育館だった。とりあえず席に着く。年輩の人が多い。チェルノブイリの子供たちのためのチャリティとのことだった。入場料は£5で、中で売られるパンフレットやアイスクリームなどの収益も寄付されるそうだ。合唱曲そのものはよかったのだが、いかんせん音響効果が無いに等しいので、迫力という点では今一つだった。指揮者が軽妙なトークで聴衆を沸かせるのだが、さすがに会話についてはいけなかったし。 夜道をcottageに戻ると23:30近かった。なにはともあれ寝ることにする。

第七日 Abergavenny ~ London

朝、昨夜、遅かったためにBelcham夫妻に朝食の時間を伝えていなかったが、8時に行くと、すぐに用意してくれた。
昨夜の話や山に登ったときの話をする。ロンダ渓谷の街では、数年前にボタ山が崩れて学校をのみこみ、生徒が多数死傷したそうだ。再会を約して出発。彼らの写真を取り忘れたのが残念だった。

Abergavennyに別れを告げて、再びNewportからM4に乗って一路、ロンドンへ。行きはいきなりの雨に緊張していたためか、今日はあっという間だった。帰りは並のスピードで走っているのに時間が長く感じる。
1時半、Heathrowに帰着。レンタカーを返却してTerminal 4に送ってもらって、地下鉄乗り場にあるB&B Booking Centerで宿を取る。
あとはKew Gardenに行く予定があるだけなのでその辺を希望すると、その辺りは高いのでとGloucester Road近くのAdelphi Hotelを朝食つき£65で取ってくれた。行ってみると、駅からすぐだし予想外にいいホテル。5階の部屋はCromwell St.に向いたバルコニー付きで、通りが見おろせる。 Kew Gardensへ。あいにくの空模様に加え、数十年ぶりの5月の異常気象(寒気)だとかで、薔薇も芽吹いてさえいなくて残念。人気の無い庭園をのんびり見てまわり、お茶を飲んでお土産を買って帰ることにする。
地下鉄でVictoria St.まで行き、駅やコーチステーションなどを見物。そういえばロンドンは、過去もほとんど見てまわっていない。上野のような旅の不安や期待でソワソワした雰囲気が、旅を終えかけている私たちにもひしひしと伝わってきた。駅前のShakespeareで、Fish & Chipsとビール。観光客で賑わっている。

第八日 London ~ 東京

朝、朝食が含まれていない(ホテルのinputミス)と言われて朝食が遅れる。どうやら昨日のHeathrowのBooking Serviceの女性が間違えたようだ。Voucherに「朝食込み」となっていることを再確認してもらい、ようやくありつくことができた。
そういえば昨日の女性も、ホテルのフロントもかなり忙しそうだ。やはりロンドンの相場って、高かったんだよな~、と納得。新聞も3種くらいついてきたし。

Bank Holidayを控えてか、みなとても忙しそうにしている。
Heathrowで出国して、予定通り搭乗、トラブルもなく帰国の途につく。 Virgin Atlanticはとても快適だと思う。なんといっても映画が何本も見られるのがよい。だが、その分、飛行機の中で暇を持て余して旅情に浸る...ということがなかったので、いささか残念でもあった。
久しぶりの非アジア圏だったが、それなりに楽しめた。
車に乗ったり、田舎を訪れてみたりしてわかったのは、この日本より狭い国の人たちが、なんと豊かな精神生活をしているか、するだけの基盤が整えられているか、ということだった。確かに日本とは比較にならない税負担など、決して明るい面のみではないが、中途半端な負担を強いられて、納得がいかないリターンしかもらえないのならば、必要なだけ払ってでも納得のいく行政・社会サービスが受けられた方がいいのかもしれない、と多少、考えさせられた。

China #2 (Sep.96)

96年9月中旬に、1週間の日程で、再び中国へ旅行しました。今回は上海IN/OUTで、烏魯木斉・トルファンへ。例によって往復航空券と現地2泊を手配しました。

第一日 東京~上海

上海にはUA便で夜に着いたにも関わらず、気温が高く湿っぽかった。とりあえず民航班車で静安区へ向かう。料金はあいかわらず4元。虹橋開発区のビル建設ラッシュはすさまじい。香港のような外観を呈する街に変貌しつつある。
民航バスの発着点からIMG0007錦江飯店まで歩く。予想外に遠く15分ほどかかってしまった。ここの北楼をJHCのホテルクーポンで予約してある。前回の和平飯店に味をしめて、上海ではオールドホテル泊まり歩きをやってみようと思い立った。なんと豪勢な....と言われるかもしれない(実際、旅先で出会ったバックパッカーにもよく言われたけど)が、私たちは決してゴージャスさだけを求めているわけではない。事実、最近増えたより格上の近代的なシティホテルには何の魅力も感じない。だが一方で安さだけを求めて旅の時間を使うほど、私たちは時間に贅沢さを許されている身分でもない。また時間があっても、よく耳にするように安さだけを求めてそれを費やすことはしないと思う。とりあえずは無事、チェックインできた。となりにホテルオークラが醜悪なタワーを建ててしまった旧錦江倶楽部こと花園飯店がある。
ちなみに上海でCITI CARDが使用できるのは、この時点では外灘の和平飯店と、YANAN Road.だけだった。この2つのホテルの間の道がYANAN Rd.、つまり茂名路であることを考えると、もしかしたらどちらかにCITI CARDのATM があるのかもしれない。
北楼は旧キャセイマンションで写真どおり洗練された建物だったのだが、印象に残ったのは中楼と名付けられた Grosgover Houseの方だった。修復中らしく、煤けて汚れた姿ではあったが、翼を広げたようなこの形はまさに外灘にある上海マンションそっくり。なにか関連があるのだろうか。IMG0008
ホテルの北に付設のスーパーでビール・ヨーグルト・菓子を買って帰る。

第二日 上海~烏魯木斉

8時、静安公園に散歩に出る。途中、安義路の自由市場に寄ってみたが、入口付近に2、3の小吃店がある以外は、あまり変哲の無い海産物と野菜の市場だった。包子とピーナッツ餅のお菓子を買う。c2-002
静安公園の延安路側の入り口は、遊園地の入り口にもなっていてわかりにくい。入園は一人5角。剣舞やダンスを練習している人 や親子連れが多い。c2-003
ホテルに戻って虹橋機場へのシャトルの時間帯を聞くが、遅すぎて断念。 民航班車にする。11時半頃に空港着。c2-009国際線ロビーの3FにUAはじめ、航空会社のオフィスが並んでいるのを初めて知った。首尾よくリコンファーム完了。
国内線ロビーは、新しくなって国際線よりきれいだった。まだチェックインは始まらないようなので朝食兼用の昼を食べることにする。国際線側の端にある食堂は、昼休みなのか店を閉めてしまったので、シャロンへ行く。

1時半過ぎに国内線に戻るとチェックインが始まっていた。機場管理費50元。セキュリティチェックまではパスポートの提示が必要。
新彊航空機は白地にブルーのカラーリング。主翼下に4基のエンジンがある機体だが、見たことがない型だった。中にはいるとロシア語の表示がある。これがアントノフなのだろうか。座席番号は前席の背もたれに付けられていて、映画館のような雰囲気。救命胴衣はない(陸上しか飛ばないから要らないのだろうけど)。
キャビンアテンダントの制服はブルーストライプのブラウスで洗練されているが、英語が通じる人と通じない人がいる。アナウンスは普通話と英語だが、後半になるに従って、英語は省略されてしまった。
期待のお土産は、まず天池を描いた扇子、新彊ビール、新彊の民族音楽を収めたカセットテープといったところ。c2-010飲み物のサービスはもちろんあるが、オレンジジュースはシロップのように薬っぽく、コーヒーには砂糖が入っている。機内食もこれだけ ?と思っていたら、後からホットミールもちゃんと出てきて十分な量だった。7時半に到着したものの、まだ日も沈まず明るい。c2-011
空港で、帰途便のリコンファームを試みる。コンピュータの具合が悪いのと、英語が通じないせいで、かなり時間を取られるがなんとか完了。雲南航空と同じくやっぱりチケットにハンコを押してくれた。

リコンファームのせいで民航班車に遅れてしまう。次は9時だという。ちょうど到着便を待っていた新彊大学の人(名刺には建築学の客員教授 劉とあった)が、北京からの客を待っているので、乗せていってくれるとのこと。ご厚意に甘えることにする。ちょっと遅れてスーツを着た年配の紳士たちが到着。いかにも大学の教授といった感じだ。彼らと同乗して烏魯木斉市街へ。道は広く整備され、両側には巨大なビルが立ち並んでいる。夜なのでよくは見えないものの、大都市のようだ。アーキテクト(と劉さんは自己紹介した)らしく、みな建物を指差しては批評したり、蘊蓄を傾けたりしている。
客人を送ってから、マイクロバスに残った私たちを、運転手がすぐそばの紅山賓館へ送ってくれた。礼を言って別れる。さすがに22時過ぎとあって、部屋はかなり埋まっているようだ。5人部屋ドミに最後の空きがあるということで滑り込みセーフ。1人32元、デポジットが2人で40元。2人連れの日本人の学生と欧米人が1人。日本人学生たちは天池とトルファンに行ってきた帰りだと言う。トルファン行きのバス乗場を教えてもらう。

第三日 烏魯木斉~トルファン

6時半に起床、8時にチェックアウトして、昨日教わったバス乗り場へ行く。歩いて長途汽車站を探してもよかったが、時間も考えてホテルからタクシーにする。教えてくれた人が言ったとおり、10元で斯林公司へ着く。屋台食堂が併設されていて、羊肉の匂いがする。テーブルはナンをちぎってスープに浸けたり、シシカバブを挟んで食べているウイグルの人たちでいっぱいになっている。同じ烏魯木斉なのにすっかり西域の雰囲気。ここで腹ごしらえをする。羊肉とにんじんを煮込んだスープ、ナンで2人で15元。山のような羊肉を食べきれずに残すと、「バスに乗るの?」「吐魯蕃に行くのか?」「行くなら昼飯に持っていけ」(と、ウイグル語で言っているのだなと推定)とナンにくるんで、袋に入れてくれた。
ミニバスは15元。最後尾の席しか空いておらず、相当の揺れを覚悟する。2人連れの日本人の若い女の子が乗っていた。駆け足でカシュガルまでバス旅行するのだと言う。女性の1人は、南京に留学中らしく流暢な普通話を話していた。隣のおじさんとニコニコするしかない私たちには、やはり言葉がわかるのは羨ましい。
道は悪い。特に川沿いに山を越えるあたりは、先の洪水で橋や道が破壊されていて、道を外れることもしばしばだった。塩田のある盆湖や、ステップの中に立つ新彊風能公司の巨大な発電用風車などを見ながら、1時半にトルファン着。
バスターミナルの背後の交通賓館へチェックイン。ツインが1人100元と言うのを、バス乗り場からくっついてきたガイドの口利きで80元にしてもらう。外賓料金にしても、部屋の内容を考えると高い。ツインなど、プライベートに部屋を確保しようとすると、さすがに高くなる。
若いガイドはアビブと名乗り、流暢な日本語で450元で8ヶ所の一日観光を勧めてきた。ホテルでちょっと世話にはなったが、450元は法外だろうということで、保留にする。19時にまた会うことにして(値段が下がらなければ断る) バザールへ出かける。c2-015
傘状テントを張っての露天商売は、沙坪のバザールを彷彿とさせるものだが、そこかしこにいる ロバ車を除けば、あまり目新しさはない。特産のハミ瓜を見つけて一個買う。量り売りで2元8角。味はメロンそのもので、ちょっとリッチな気分になれる。c2-017IMG0014

3時、トルファン賓館へ。英語ガイドの一日ツアーが40元。やはり周辺ツアーはこれにすることにした。9時から13時、16時から19時の2回分の値段とのこと。ちなみに、ここでもツインは22日まで全部没有と言われる。どうやら パッケージツアーが全部屋を押さえているらしい。また有名なウイグルダンスのショーは9時半からで、一人20元。
団結路と青年路の交差点近くまでもどり、 葡萄棚の下に軒をならべる清真餐庁の一つで夕食を取る。茄子の炒めもの(10元)、豆腐とワカメのスープ(6元)、鶏肉・ピーナッツ・野菜の炒めもの(お薦めだったが、これは20元もした)。味はいいのだが、か、辛い。雲南での失敗がまったく活きていない。
19時、ガイドの彼を待つが来ない。そのまま21時になってしまったので、トルファン賓館のショーに出かける。
ホテル正面の裏側にある葡萄棚の特製ステージは、すでに人でいっぱいになっていた。ツアーらしい中国人と日本人が半々くらい。入場料は20元だった。200人近くはいたかもしれない。予想に反して唄とダンスはなかなか見応えがあった。ウイグル族のお皿の踊りや「ウイグル族の娘」を始め、日本語の「ふるさと」まで確かに観光向けではあるが、洗練されていて技術的にもすばらしい。

10時半近くになり、交通賓館に帰ろうとするとようやくガイド(アビブと名乗った)が謝りながら現れた。明日、英語ツアーに行くことにしたというと、残念そうに苦笑いしたが、では夜に砂漠に星を見に行かないか?と言う。いわゆる「怪しげな砂漠ツアー」の話は聞いていたので「ホントの砂漠じゃないでしょ?」と言うと、「いやホントの砂漠だ。ただし2つコースがあって、ロバ車で行くトルファンの近くの砂漠は小さい。これは50元。もう一つは東へ2、3時間くらい車で行くけど、ホントのタクラマカン砂漠の端っこだ。こっちは砂漠で一泊して350元。」と説明した。
やはり「タクラマカンの端っこ」というのは疑わしいと思ったし、350元という値段も法外だと思ったが、明日はツアー帰着後することもないし「泊まらないから値段を下げてくれれば行ってもいい。」と交渉してみる。結局、一人100元が限界だった。それでも単にくらーい夜の砂漠に行ってぼーっとするために100元も払うのかぁ?という気持ちだったが、この手の「ツアー」がどんなものなのか体験してみたかったのと、大理で見た星空が脳裏に去来して、明日19時までにツアーが終われば行く、ということにする。
昨日、上海から数千キロ飛んで新彊に入ったのに、今日はもうバスでトルファンにいる。こうもすっきりと物事が運ぶとヘンな気持ちになる。もちろん、中国で個人旅行を試みる人ならだれでも知っているように、それだけの「効率的」な移動をするだけの対価は払わされてはいるのだが。

第四日 トルファン

9時、トルファン賓館からバスで出発。メンバーは、緑州賓館(オアシスホテル)に泊まっているアメリカ人2人組(日本の高校で英語教師をやっていたという)と、ニュージーランドのカップル、それとカナダ在住の香港人、河南省に留学しているというSさんという日本人の女性、私たちを加えて8人。ガイドは中国人でスティーブンと自称したが、今一つ聞き取りにくい英語だった。
Sさんは大学生で、県の交換留学プログラムで来ているという。バスは火焔山、ベゼクリク千仏洞、アスターナ古墳群と回って高昌故城へ。 c2-018火焔山は、ずっと見えているので、正面に来ても「ああ、来たな」という感じがするだけだった。 ベゼクリクの破壊の程度は殊の外ひどく、破壊そのものを確認したい人以外には、あまり見るところはない。未公開の洞も、修復していないかもっと破壊がひどい状態にあるらしい。
c2-020ここではみな、内遊旅客料金(6元)で首尾よく入れたのだが、それ以外の場所では、わりとチェックが厳しく、学生証もない私たちは、やっぱり中国語で書かれている外賓券を買わされてしまった。気にしなければそれでいいのだが、気にしはじめると腹が立ってくるもので、同行したニュージーランド人のカップルは、彼らの「学生証」が通用しないところは入場しないという徹底ぶりだった。
ちなみに外賓料金は

 ベゼクリク千仏洞:6元で入ったので不明だが12元くらい?
 アスターナ古墳群:10元
 高昌故城:13元
 葡萄園:5元
 交河故城:13元
 カレーズ:8元
 蘇公塔:20元

という状態で、全て外国人料金だと多大な出費となる。
ウイグル人の集落をいくつか越えて、アスターナ古墳群に到着。c2-021ここは、石室内に車師前国時代のミイラと壁画が残っていることで有名だが、現在は、篤志家の寄付とかでミイラの周りにはガラスケースが設置されていた。 高昌故城は、交河故城に較べて残っているものが少ない。一人5元というロバ車の客引きを後目に観覧コースの奥の大寺院へ歩く。仏塔の側面の小仏は、ほとんど全て顔の部分が無かったが、イスラム化の破壊の跡なのか、過酷な環境で朽ちたのか、もはや見分けがつかなくなっていた。IMG0040
帰途は、オランダ人の老夫婦を乗せてきたロバ車にSさんの交渉で、3人1元という値で乗せてもらう。例に漏れずロバ車の兄ちゃんも、日本語がとてもうまかったので、中国語、日本語、英語(オランダ人夫婦)を交えながら会話が弾んだ....といってもとてもスムーズな会話ではなかったが。
ロバ車のウイグル人の兄ちゃんは、河南省から昨年、作物を売りに新彊に来た女の子と仲良くなり、この冬、遊びに行くための旅費を稼いでいる。だが彼女は仏教徒なので、結婚できず悩んでいるらしい。
一方、オランダ人夫婦(兄ちゃんは、この夫婦と中国人ガイドを一人20元で乗せていた)は、世界一周旅行の一部として、香港、広東、昆明、成都、上海、西安、北京と回る途上だという。
ロバの具合が悪く、30分以上も遅れて到着。欧米人5人組はともかく、スティーブンは怒り心頭といった感じで「今度からは絶対遅れるな!」と不機嫌そう。

予定が遅れたため、先に葡萄園へ行き、昼食にする。ここで8元くらいの炒めうどん(トマト風味)を食べたのだが、このオーダーでアメリカ人たちが手間取ると、またスティーブンが苛ついている。Sさんによると、どうやら毒づいているらしい。「こういうところで立場に関わらず、イライラとか文句とかを言ってしまうところが、中国にはよくありますね」とのこと。確かに、国民性なのだろう。
葡萄園は、単なる干葡萄、土産物を売っているエリアで、入場料を払う価値ははっきり言ってない。ただでさえプロ意識の乏しいガイドに怒っていた5人組は「呆れてモノも言えない」顔つきだ。干葡萄を選ぶ。バザールに較べ安くはないが質は産地だけによい。1克6~7元程度だが、売り方はかなり強気で5角折り合わないだけで、計った袋をひっくり返されてしまった。

交河故城は、非常によく残っていて見応えがある。ユネスコのマークがあるので、世界遺産などに登録されているのかもしれない。。c2-022

道すがらペットボトルを集める子供たち に出会った。小遣い稼ぎになるのだろうが、ペットボトルの再生利用施設が付近にあるとは思えない。環境よりもボトルそのものを使い回すためではないだろうか。
人混みで見学どころではなかったカレーズと、一面の葡萄畑と干葡萄を作る乾燥小屋に囲まれた蘇公塔を見て帰る。19時。IMG0043
Sさんは、まだ宿を取っていなかったとのことで、トルファン賓館の8人ドミにチェックイン。再会を約して別れるが、それから2日、残念ながらお互いに会えないままトルファンを後にすることになった。

今日は約束通り、アビブが待っていた。正直言って疲れていたのとやっぱり高いなーという思いで断りたかったが、決断した以上は行くしかないだろうと出発する。途中で夕食を取り、サンタナになるはずだったダイハツの軽トラは一路、火焔山の東へ走った。
2時間以上走り、日も暮れて真っ暗になった頃、ようやく「砂漠」だという場所に着いた。しかし暗くて何も見えない。月と星の灯はあるものの、地面は真っ暗で砂を踏みしめる感覚以外にはなにもない。
歩いてみると、確かに砂丘のような凹凸があり、表面は砂が流れている。目の前の視界を黒い棒が横切る。近寄ってみると、どうやらガスか石油のパイプラインのようだ。それにしても、こうもなにも分からないとちょっと悲しい。煌々と月に照らされる砂漠のイメージを持っていたが、それは唄と絵の中だけのことなのだろうか。聞けば、この「夜の砂漠」ツアーは日本人しか行かないらしい。

しばらくぼーっと3人で座り、雑談をして過ごす。漢民族への反感は、予想はしていたが根強いものがあるという。
ウイグル族の産児制限は3人だが、漢族の決めたルールに納得している人は少ない、とか、先般の洪水の報道が国内ではほとんどなかったとか、大挙してやってくる漢族がいい仕事を取ってしまい、ウイグルだと大学卒でもあまりいい仕事につけないとか....。
もちろん彼はガイドだから、こういうあたかも絵に描いたような民族対立の話をして、通りすがりにすぎないくせに「新彊を理解したい」おこがましい観光客におもねっているのかもしれない。もっとも、そんなことをしても、あまり彼の得になるとは思えないから、こうした反感は、彼らの偽らざる実感なのだろう。いまだに反漢民族の叛乱が間歇的に起こるような土地柄であれば、この程度の発言は問題にもされないのかもしれない。
車の方に帰りかけたとき、その光に気を取られて1メートルほどの段差から落ちてしまった。胸をしたたか打ったものの、指に擦り傷を負ったほかは軽い打撲で済んだ。

アビブは、今晩砂漠に泊まるという別の日本人のところに行くというので、彼の兄の友人だという麦藁帽のウイグル人ドライバーと、ダイハツで帰ることにする。真っ暗な上に風のせいで砂が巻き上がり視界がとても悪い。心細いな~と思ったそのとき、ダイハツか「ばちっ」という火花とともに停止した。オルタネーターかなにかがやられたらしい。なぜか丸ごと予備のパーツが車内に置いてあり、暗闇の中、懐中電灯の光で奮闘して復帰。だが、また20キロほど走ると今度は右後輪がパンクした。もうもうと砂が飛ぶ中、彼は黙々とテンパータイヤに交換して出発する。
ようやくこれで....と思っていたら、さらに進んだところで右前後輪の空気が漏れてしまった。近くのウイグルの村で、自動車修理工を探して空気を入れてもらう。村の中は防砂林に守られて砂も入らない。気候がいいのでみな 日干し煉瓦でできた家の前にパイプベッドを持ち出して涼んでいる。真っ暗で静かだった。

やっとの思いでトルファンの市街まで帰ってきたが、すでに夜中の1時半。交通賓館は門を閉めてしまっているので、やむなく彼の家に泊めてもらうことにする。中庭は葡萄棚になっていて、方形のモルタル塗りのきれいな母屋が5棟ほど続いている。反対側には「木を跨ぐ式」のトイレと犬が繋がれている。
部屋の中は奥の半分が、1メートルほどの高さの台になっていて、そこに絨毯や布団を敷いて寝るらしい。前半分は土間のようになっている。葡萄とお茶をもらって寝る。まぁ交通賓館にはたいした荷物もないし、いい経験ができた。

第五日 トルファン

7時半頃、今日はガイドバスの運転の仕事があるという彼に、車に乗せてもらって交通賓館まで送ってもらう。まだ門が開いていないのでバザールの清新餐庁で野菜炒めと包子を食べる。
交通賓館の服務員は、ちょっと驚いたようだったが、こっちはそれどころではない。部屋に帰ってシャワーを浴びると、体中から砂が出てきた。やっぱり砂漠だったのだろうか。c2-028
一眠りしてトルファン賓館へ移動することにする。手持ちの資金が乏しくなってきたことと、あわよくば「砂漠ツアーの感想を聞かせてくれ」と言っていたSさんに会えるかもしれないと思ったためだった。古い建物にある 3人部屋のドミは一人27元。押金が20元。バス・トイレが共通になると格安である。服務員のおばさんは、鍵を・開けるついでに、自分が食べようとしていた葡萄をくれた。
部屋で眠った後、向かいにあるJohn's Cafe で遅めの昼食。カシュガルピザやトマトスープ、パンを食べる。16元くらい。ここは雰囲気がよくてのんびりできる。町中の売店で牛乳瓶に入って売られている飲み物はレモン味のついたヨーグルトだった。一本1元、おいしい。c2-029

夜は、バザールの西、吐魯蕃商場前の広場 に出る屋台に行ってみた。夕方からシシカバブや羊肉料理、麺類を売る青空屋台が開き始め、ひときわ賑わう。夜もかなり遅くまでやっている。シシカバブは一串2元、ラーメン風の豆と肉が入った麺に水餃子を一皿で6元。ハミ瓜や西瓜も売っている。シシカバブは、香辛料のせいもあるのか、羊肉の臭みがなくてうまい。
結局、Sさんとは再会できなかった。トイレは一応は個室だし、シャワーも湯が出ないということもないし、快適。
砂だらけの服を洗濯して寝る。もう一人の宿泊客が来ないので結局、ツインと同じ状態に。

第六日 トルファン

昨日までの疲れか、旅の半ばに来て昼まで寝る。フロントでSさんを探してもらったら、ドミのチェックインリストを渡されてしまった。しかし探したが見当たらない。もうチェックアウトしたのではないか、とのことだった。
中心街だけを歩いていたので、解放路とその南の道を蘇公塔方面に歩いてみる。
車やロバ車が立てる土煙がすごいが、そこはすっかりウイグル人の村になっている。 c2-036
家から道を隔てて並木があり、その外側には 畑、立木の間には道に沿うように水路 が縦横に走っている。老人たちはこちらが声をかけると挨拶を返してくれ、子供たちは「ハロー」と言って写真を撮る真似をする。写真を撮って、という意味なのだろうか。声を交わすだけだけれど、その瞬間に、厳しい表情が緩むのが印象的で、道を歩きながら数えきれないほど挨拶してしまった。c2-032
挨拶しても「なんだなんだ」と、じーっと見つめる漢民族の反応も、それはそれで面白くて嫌いではないけれど「なんとなく笑顔」というのは、日本人の反応に近くてなんとなく和む。
迷路のような葡萄畑の間に、昨日見た 蘇公塔がやっと見えた。
帰途、海抜0メートル地点なる場所に寄ってみたが、なにもなかった。c2-031
店じまいしかけのバザールで、お土産用に干葡萄を買う。500グラムで7元5角。昨夜の商場屋台で今夜も夕食。晴れていたので、解放路の方へ入ってみると、立木で視野が狭いものの、星空がきれいにみえた。どうせなら昼に砂漠へ行くツアーにすればよかったと思う。

第七日 トルファン~ウルムチ

今日はいよいよウルムチへ帰ることにする。7時半にチェックアウト。タクシーが汽車站まで20元と言ってきた。ガイドに聞いていた5元と言ってみたらOKとのこと。距離を考えるとこれも高いが、急いでいたので乗ることにする。
ウルムチまではなぜか18元。学生は16元。アビブとオスマンの2人がバイクで現れ、見送ってくれた。
帰途は大きなバスで揺れは少なかったが、途中の達坂城の近くで、公安か軍隊らしき検問があり、サブマシンガンを構えた兵隊が荷物を小突いて回っていた。

2時にウルムチ着。バスターミナルからタクシーを拾い、紅山賓館へ行く。今回の部屋は3人のドミ。荷物を置いて、 紅山を遠目に見ながら、7路バスで新彊ウイグル自治区博物館へ。外賓25元、内遊旅客も12元とえらく高いと思ったら、ここはかの「楼蘭の美女」を始め、高昌国時代のものなど十数体のミイラが保存されている場所だった。日本人観光客も多く訪れていた。
紅山賓館の一階には、時間の別なく天池観光を勧誘するカザフ族のガイドがいる。トルファンでのんびりしたため、泊まりにはいけないが、日帰りで天池を見に行くことにした。バス送迎のみなら15元+入場料30元。同室になったのはエイドリアンという大学生の女の子で、北京で中国語を学んでいるらしい。明日、カシュガルへ発つという。天池へ行くと話すと、メッセージボードに感想を残しておいてくれとのこと。
廊下で、トルファンの一日ツアーで一緒だった欧米人グループに再会して驚く。彼らもみな、カシュガルを目指すらしい。
ここのシャワーは本館ととても離れていて驚いた。しかも客以外の人とも共同になっているようだ。

第八日 ウルムチ(天池)

朝8時、中庭に止まったバスに乗る。アイルランド人とアメリカ人の学生、日本人のバックパッカー3人と同行。彼らはみな一泊するらしい。一泊すると40元とのこと。入場料を払わされたが、券面の表示が20元なので、10元よけいに払わされたようだ。だが、運賃として払った15元は、ガイドがそのままバス(乗合バスだった)の車掌に渡していたので、泊まらない私たちからは、彼らのマージンが取れないのかもしれない。
入口でバスを乗り換え、日光のいろは坂を思わせる急坂を上ると湖畔に出る。上の駐車場からは徒歩。20分ほど湖に沿って歩くと、 観光用のパオが湖畔に立っていた。
さすがにみなが勧めるだけあり、渓谷の美しいところである。手前に緑色の水を湛える天池があり、急峻な山の彼方に雪をかぶった峰が見える。
アイルランド人の学生は池で泳いでみたが、さすがに冷たかったようだ。
パオに入ってみると、先客がいた。日本人の学生で、初の海外旅行で中国を旅しているという。ここが気に入ってもう3泊してしまったそうだ。今日の夕方、ウルムチへ帰る予定らしい。
まわりになにもないところなので、おばちゃんが作ってくれる昼食を食べることにする。一人10元。スープとナンに似た固いパン、羊の乳でいれるミルクティー。
あとは人それぞれ、話をしたり、散歩したり、ひなたぼっこをしたり。久しぶりにのんびりする。

4時ごろ、帰途につく彼といっしょに下山。バスが遅れてやや暗くなってから帰着。彼は5人部屋を取り、一緒に晩飯を食べに、中心街へ出る。映画館の広場に近い牛肉麺屋で加工牛肉面4元というのを食べる。食券制の店だった。入り口に出ていたカバブは、5本単位10元で売っていた。
彼と意気投合し、彼の知っている市民公園の北にある餃子屋に行ってみる。さすがに11時近くなり、店はもう明日の仕込みにかかっていたが、残りを食べさせてもらえることになった。アイヌの研究をしているという彼は、これからトルファンへ行くという。お互い名前もきかなかったが、楽しい道連れだった。

ホテルへ帰り、フロントの服務員に明日、朝6時半にチェックアウトしたいというと快諾してくれ、タクシーも呼んであげると言われる。空港までは50元だとのこと。ウルムチに着いた日に送ってくれた新彊大学の劉さんも、タクシーならそれくらいすると言っていたので、頼むことにする。
エイドリアンが去った後の部屋には、新しい旅行者は来なかった。

第九日 ウルムチ~上海

6時過ぎにフロントの服務員から電話があった。
降りていくと、服務員室から出てきた友人の女性を運転手だと紹介した。うーん、白タクだったのか...と思ったが、昨日のとおり空港まで50元だと確認してくれた上、その「友人」の車が最新のドイツ車(オペルだったような気がする)のセダンで、乗り心地もスピードもタクシーと比較にならなかったので満足する。空港にはかなり早く着いてしまったが、機内食が出るだろうという読みで食堂には行かなかった。
7時45分、新彊を離れる。上海には昼の1時着。

翌日(最終日)は、これまた贅沢に上海青年会賓館にしてあったので、今日の宿は外灘周辺、ウルムチで出会った彼が薦めていた 浦江飯店に行ってみることにする。ドミはだめだが、運良く5人部屋が空いているとのことでチェックイン。一人70元(10パーセントの服務費別)だが、部屋はオールドホテルの一つだけに、なかなか 広くて綺麗。しかも立派なバス・トイレが付いている。ただ部屋に入る前に、さらに鍵のデポとして100元預けさせられたのは驚いた。当たり前のことだがやはり都会に帰ってきたなぁ、と実感した。結局、手持ちが足りず、両替してしまった。
同居人とは男女別室になってしまった。私の同室者はフランス人のベンジャミン。大学生で、北京・西安・竜門を列車で回ってきたという。社会学の専攻で、フランス南部の都市の民族集団、特にアラブ系のコミュニティとその芸能について調べているという。
同居人の方の部屋は、彼のパートナーの女の子に加え、イギリス人とドイツ人、そして日本人の5人満室状態だったそうだ。
夕方だったので、魯迅公園へ行ってみる。ちょうど催し物をやっていて、きらびやかな電飾をつけた、陶器や蚕の繭で作った龍や孔雀のモニュメントが溢れていた。
戻ってから外灘へ。浦東新区には、ますますビルが増えている。

部屋に戻ってベンジャミンと話す。彼らは豫園界隈で、人民服風のジャケットや装飾品を漁ってきたらしい。お爺さんがよく着ているような渋い茶色の綾織の上っ張りなんかを見せてくれた。

第十日 上海

朝、チェックアウトして、西蔵路の上海青年会賓館に向かう。人混みもあって、思った以上にかかってしまった。服務員は親切だが部屋は広くない。
豫園へ。前回逃した南翔小龍包を食べる。16個8元。確かにうまい。モスバーガーは9元だが、こちらは日本のものと同じ。今回は資金がやや潤沢なこともあり、150元のお茶セット(急須と茶盆、猪口のように小さな湯飲みがセットになっているもの)を買う。
子供用の文具や玩具などの店が多い安平街は、再開発するようで、取り壊され広場に店が集まっていた。小さな日めくりカレンダーや、風船、栞などの小物をお土産用に買う。あとは量り売りの豆菓子でも買ってかえればいいだろう、ということで終了。
帰りがけに、広西路と金陵路の角の豪都大酒楼に「INTERNET CAFE」の看板を見つけるが、どうやら25日オープンらしく、入れなかった。

夕方、大世界へ。隣の長安餃子楼で2人90元のセットを食べる。フルに食べると200元というセットもあるらしい。ここで出た薬煎茶は、木の実や香辛料がたくさん入っていて、疲れていたからだにはありがたかった。
閉店間際の友諠商店でお土産の買い足しをする。新聞の記事で、南京路にかのHard Rock Cafeがオープンしたと書いてあったが、どうやらかなり西の方らしいので今回は諦めてホテルに戻る。今までの日程と対照的に、忙しい日だった。

第十一日 上海~成田

朝の人民公園から、505路で虹橋空港へ向かう。2元5角。9時前に空港に到着。今回は妙にうまくいったな、と思っていたら、ここにきてUAがトラブルらしい。昨夜、台風のため成田便が飛ばず、増便もなく今日の便に繰り越すという。案の定、私たちを含め大部分の本日の客は締め出しをくい、慌てて他の便を当たらなくてはならなくなった。連休最後という条件も重なって、CAもJALもあっという間に埋まってしまった。
結局、昼のJAL便のキャンセル待ちでやっと席が取れ、無事、帰途についた。
大きなトラブルはなかったものの、最後にきて「やっぱり中国は油断できないな~」と思い知らされた旅行だった。

Sunday, July 16, 2006

Bali (Feb.97)

97年2月中旬、バリ島へ旅行しました。 今回は2回目なので、着日のみKutaに一泊、残りは前回気に入ったUbudで過ごすことにし ました。
往復航空券と現地1泊を手配。


第一日 東京~Kuta

ジャカルタ経由のガルーダ便は、30分強延着した。現地は雨。 到着ロビーを出たところで、Poppies Cottageの出迎えを探したが、さすがに 遅れたためか、見あたらない。
偶然、一緒になった学生時代の同期は、首尾よくホテルの送迎を見つけたようだ。ヌサドゥアに滞在して、ジャワへ行くという。学生時代はインドをフラフラして いたのだが「歳くって、もう疲れちゃって」とのこと。彼らも探すのを手伝ってくれたがダメ。しょうがない、友とは別れ電話すること にする。
ルピアの硬貨など当然持ってない。空港で販売されているテレカは ありがちなことに、Rp.20,000からしかない。さっそく両替したばかりの金が 減っていく。
電話すると、迎えを寄こすという。到着した運転手は私たちの他に数組の客も 探したが見つからず、「もう今日は何回来たことか」と苦笑しながら、そのまま ホテルへ運んでくれた。

予想以上にPoppies Gangは狭い通りだったが、 茅葺きのコテージが点在するホテル内は、驚くほど静か。 コテージ内はエアコンと天井ファン、 冷蔵庫、ステレオがあり、隣接する浴室・洗面所は、オープンエアで広々としている。
ポットには冷たい水があるが、パックティーなどは置いていない。

第二日 Kuta~Ubud

ホテル内を散策する。紹介されているように 決して広くないが、小さなプールや図書室もある 、 とてもしゃれた造りになっている。
向かいのPoppiesレストランで朝食を取る。前日の雨のため、半分くらいの座席が ビニールシートをかぶったまま。
Jl.LegianのPeramaで、Ubud行きのシャトルのチケットを買って帰り、チェック アウト。なかなかいい雰囲気だったので、金曜日にPoppies Cottage IIを予約する ことにした。

11時過ぎのバスでUbudへ。一時間ほどで着く。暑い。とにかくUbud Centralの案内所まで歩こうかと思ったものの、暑さに負けてARTINI 2 へ。一泊Rp.45,000だったものの、一階の部屋で湿っぽかったのと、明け方、電気を切られた(?もっとも、入り口の電灯が消えただけだったけど)件があり、ちょっと気に入らなかった。おまけに片方のベッドには乾燥した砂のようなものが掃かれずに残っていて(もしかしたら虫の卵かなにかだったのかもしれない)、実害はなかったものの ちょっと不愉快だった。
ここは田圃の間の窪地になっているので、湿気が溜まりやすいのかもしれない。 もう少しグレードを上げればよかったかと後悔する。
自転車を借りて、昼食および明日の宿探しに出る。観光案内所で夜のチケット(Peliatan でのWomens Gamelan)を買う。
宿探しはなかなかうまくいかない。せっかく一日のかなりの部分を費やしたので、 わがままな感想を列記する。 ちなみに、これは一見した感想であって、決してじっくり検討した上でのものではない。 まず、Jl.Monkey Forest周辺。

* Fibra Inn、Ubud Inn
こざっぱりしていて快適そうだが平凡。そのわりに、US$30-40はする。
決して悪くはないのだけれど、小奇麗でなくてもよいから何かがほしいところ。

* Monkey Forest Hideaway
あまり奥の部屋を見なかったせいか、今一つ静かではない。 さほど景色がいいわけでもない。

* Frog Pond Inn
ぱっと見たところ目立たないが、実はここ に決定。
「地球の歩き方」でもLonely Planetでも"Friendly"との評価が高い。実際、非常に 居心地がよかった。
ガイドなどでは3部屋しかない、とされているが、奥に数部屋増築している。 縦に長い構造で、思わず京都の町屋を思い出してしまった。
難点は(後でも触れるが)防音性が低いこと。もっとも夜中でなければ、いろいろな 声が聞こえてきて、それはそれで面白かったけれど。

Jl.Raya Ubud~北側周辺。

* Siti Bungalows
実は、隠れた本命だった。しかし「明後日まで予約はいっぱいです」の一言で断念。
レストランはその後、来てみたが、とても静かな雰囲気。値段もまずますだった。

* Suci Inn
夜は静かそうだが、道に面してゴミの集積場があるのが残念。

* Ketut's Place
自転車で目指したが、道を間違えて行けなかった。情けない。

* Taman Indah Homestay
道を上っていくと、卓球をしていた男の子が案内してくれた。
自転車でも10分近くはかかるほど奥まっていて、とても静かそう。
ここも2日ほどは空きそうになく断念。 石鹸無し、水シャワーで、Rp.15,000。 あまりに短すぎる滞在には向かないかもしれない。

Penestanan方面。ここはかなり期待していた。結果的には泊まる機会がなかったけれど、 静かで、値段に応じた宿のグレードも良さそうだった。
こころなしか欧米人の家族連れ、長期逗留組が多い気がするエリアである。 3日以上滞在してのんびりする人、歩くのが苦にならない人にはいいかもしれない。 集落に続く道の北寄りをいくつか回ってみた。

* Georig
西向きに開けているので、眺めはよいかもしれない。
宿の人がいなくて、中は見なかった。

* Melati Cottage
ここWellのTravel Conferrenceでも、 勧めていた人がいたところ。
$35で、天井ファンとホットシャワー、ダブルのベッド、昼寝用のカウチが2台、 という巨大な部屋を勧めてくれた。
残念ながら田圃は直接見えないが、ややチープな穴場リゾートといった感じ。 この辺りでは高めだが、値段の割に質は高そう。

* Siddahrta
Melatiのさらに先にある。こちらは周囲が開けていて、田圃がよく見える。
西向き2階にある部屋は、蚊帳が張られ、マンディスタイルの水シャワーだけ。 しかしここから見えた田圃の夕焼けは、捨て難いものがあった。
Rp.25,000だが、一泊でももっと安くするとのこと。
洒落た飾りモノや屋外プールなんて要らない、ライステラスと夕陽さえ あれば、という人向き。

Jl.Bisma方面。Jl.Monkey Forestの裏手で、中心部からの距離の割に周りがライステラス になっているというお手軽な感じの場所。
道沿いにいくつかのHomestayが3、4つかたまって立っていたが、必ずしも部屋から田圃が 見えるわけではなさそう。「ライステラスの中」に立っていることが重要らしい。

* Pringa Juwata Water Garden
狭い敷地をうまく使っている。
2 Storey Roomと呼んでいた部屋は、1Fは台所とバスルーム、オープンエアのリビングスペースとベッドルームになっていて、$60。寝るときはベッドルーム 部分だけ扉を閉めるようになっている。面白いが、値段は高い。「地球の歩き方」などにも紹介されているので、日本人も多いようだ。

* Buku View
Champuan川の渓谷沿いに建った新しいところ。こぎれいなところだが、 かなり遠い。これならJl.Raya UbudをそのままChampuanまで行っても 変わらないかもしれない。

ということで、ざっくばらんで好印象のあったFrog Pond Innに決定。 宿に人に聞くと「明日の朝、10時頃来ればたぶん空いてるよ」とのこと。

前回訪れたときには行かなかったLotus Cafeで休憩していると、チケットを 売る青年がやって来た。明日の夜、Bonaでのケチャのチケットを買うことにする。
6時45分、観光案内所前からバスに乗ってPeliatanへ。Women's Gamelanの オーケストラは、プロの楽団とは違って、やや音が揃っていなかったものの、 近年の創作も含めた、子供たちのダンスはなかなか見応えがあった。
中心街に帰ってNomad Cafeで遅いスパゲッティの夜食を取る。

第三日 Ubud

朝食はプールサイドの食堂で取る。パンケーキかトーストに、卵とドリンク。先にも書いたが、部屋があまり良い状態ではなく、明け方に突然電源を落とされるといった、あまり愉快でない印象があったので、そそくさと10時にチェックアウト。おまけに朝食を食べて部屋で荷物を簡単にまとめていると、従業員が掃除道具を持ってうろうろしはじめ、果ては部屋の入り口にシーツだのを干しはじめる始末。中国でなら腹も立たないが、仮にもホスピタリティが売りの国やホテルでこういう 目に遭うと、実害は無くとも心に受ける悪いイメージは逆に大きくなる。
まぁ、一つ学んだということにして、さっそくFrog Pond Innへ移動する。
Raiと名乗ったオーナーは、まだ若く、とても明瞭な英語を話した。雰囲気は無駄が ないけれども、ここはなかなかフレンドリーで、彼を始め、宿の奥に続く母屋に住ん でいる家族みんな、なんでも相談に乗ってくれる。
水曜日はGalunganというバリの盆に当たる日で、店はみんな休むけど、いろいろな セレモニーが見れて面白いよと初めて教わる。迂闊にもこれは全くチェックしてい なかったが、嬉しい誤算だった。
当初は、Negara方面に行く予定にしていたが、せっかくだからUbudに滞在すること にする。 Canderi'sで昼食。Rp.12500。私は鶏の唐揚のような料理を試す。

1時、マーケット前からNeka美術館へ。Rp.3,000。係員が説明してくれるのはありが たいのだが、中には観光やタクシーをしつこく勧める人もいて、やや閉口した。
カマサン・スタイルの古典絵画を見ていて思いついたのは、バリの芸術表現の多面性だった。絵画に表されたラーマーヤナやマハーバーラタの神話体系が、他方で彫刻や見事なダンスとして、観るものの心へ染み込んでいく様は、まるで流行りのマルチメ ディアの先駆だな、と突然、実感した。
帰途は、向かいの画廊前にいたタクシーに、お金がないとごねたら、Rp.1,000で乗せてくれた。手持ちがなかったのは事実で。申し訳ないとRp.100札数枚を付けようとしたら笑って断られ「そんなもんは屑篭に捨てちまえ。バリは物価が高い。Rp.100なんか煙草の巻紙だ」とのこと。もっとも物価高があまりにも激しくて、生活するのも楽じゃない、だのタクシーのオーナーの自分のボスは人使いが荒くて困る、だの愚痴もちゃんとつけ加えてくれたけれど。Rp.1,000だと、ワルンで昼飯一回分くらいだろうか。
ケチャは、18時発。さすがに本物の松明は使わない。 ただ、猿を演じる人数が 50人ちょっとのようで、迫力という観点からは、引き続いて演じられたサンヒャン・ダンスの方が印象に残った。 まぁ、事実上、毎日公演なんだからしかたないのだろう。といってダンスそのものの 質が落ちるわけではないし。
戻って、泊まれなかったHan Snel's Restaurantで夕食。ちょっと豪勢に米酒とデザー トも頼む、Rp.31,000。この金額になるとカード払い。ほろ酔い気分でFrog Pondへ 戻る。

第四日 Ubud

朝食はパンケーキと果物。ここは魔法瓶に入れた紅茶を置いてくれるので、お茶好き (というか飲物をあまり買わない)な我々にとってはありがたい。一日2回のペースで おかわりしてしまったが、いつもすぐに持ってきてもらえた。
朝食を食べて、部屋に備え付け(入ったときにRaiが置いていった)Lonely Planet をめくってくつろいでいると、宿のおじいさん (この人が当主らしい)が来て 「おはよう。今日はどうするんだい?」と聞いてくれた。
「BeduluからPejengを自転車で回ってみようと思います」と言うと「お寺に入るときはサロンが要るよ。サロンはいくらかで貸してもらえるけど、持っているならそれを使えばいい。それからお寺には"入場料"はないんだけど、取ろうとするところも最近 はあるみたいだ。」と教えてくれた。

近場で自転車を借りて、まずはGoa Gajaへ向かう。 Tegas周辺を過ぎると辺りは一面水田になり、まるで日本の田舎と変わらない。
Goa Gajaは、ガイドが説明してくれるが、入場にRp.1,100かかる。半地下になった水浴場など、見所は多い。
Goa Gajaからの道を右へ逸れて下っていくと、Yeh Pulu のレリーフがある。ここはさらにカメラ持込料がかかり、お供えのあるガネーシャの レリーフ前でおばあさんにお祓いしてもらうと、寄付を要請されてしまう。
行けばすぐにそれと分かるツーリストトラップだけれど、まぁ、お祓いという付加価値 もあるわけだから、しょうがない。

太い本道に戻り、しばらく行けばすぐにBeduluの交差点に出る。そのまま東に細い道を 入っていくと、左手にPura Samuan Tigaという 大きな伽藍を構えた寺がある。寺の向かいには同じ名前を冠したHomestayなる場所があったが、これが寺の付属施設なのか、単なる宿屋なのかは不明だった。
非常に静かな環境で、門前の芝生に寝転んだらさぞや気持ちよさそう。祭りの前日とい うことで、境内には三々五々、明日の供物を運んできて セッティングする女性たちや、ガムランを練習する音が聞こえてくる。
再び交差点に戻って北上。考古博物館は、改装中なのかお休み。そのままPura Kebo Edan へ行く。
受付には若い男の子2人がいて、Madeと名乗った片方がサロン代わりのスカーフを貸してくれて境内を案内してくれた。ここには、ヒンドゥ化される以前のバリ先住文化のものと思われる石像が数多く展示されている。これらはAgung山の噴火で破壊された寺の再建時に、 周囲の発掘で発見されたものだという。最大のものは "Pejengの巨人"と呼ばれる踊るビマ像。 6つの性器を持ち、その力は絶大とされている。「それゆえに祭りの前日である今日は、あのように飾り布で像の下半身を覆っているんだ」とのこと。
境内には、明日の準備でガムランなども置いてあった。 自分も演奏する予定だという彼は、いくつかの楽器の演奏法を実際に教えてくれた。 そのまま、隣の「世界の臍」(中心ということらしい)を意味する Pura Pusering Jagatへ畦を伝っていく。
臍という連想からか、ここは安産祈願の寺だという。境内の外れに舞台のようなものが あった。闘鶏場だという。
闘鶏は男たちの主要な娯楽のようで、そこかしこで鶏の鳴き声や、昼下がりに愛鶏を連れ て世間話に集まる男たちを見かけた。闘鶏そのもの は、昼下がりより夕刻前に行われることが多いそうで、見る機会がなかったのが残念。
Madeの家は寺の傍のワルンだとのことで、そこで昼食をとる。お祝い用の豚料理をのせて もらったチャンプルをもらう。ココナッツをまぶして揚げた豚の腿肉(sacred part of legと、Madeは言った)は美味だった。

少し行くとPura Penetaran Sasihへ。寺は南から行くと右手(道の東)にあるが、左手に駐輪場と、サロンをRp.500で貸してくれる場所がある。流れから、ここでサロンを借りて右手の寺へ行くのだろうと思うが、右手の寺の入り口には別に寄付を求めるところがあり、サロンの有無に関わらず寄付は要求されるようだ。直接右手の寺へ入り、寄付を払って入 るのがよいと思う。
サロンなしで寄付のみ払っても入れてくれるようだが(実際、先に行った欧米人バックパッ カーはそうしていたようだ)、サロンくらいは持参した方がいいのだろう。寺を訪れて敬 意を払う気持ちは、そこにトラップをかけて稼ごうとする人たちの有無とは関係ないと思 うから。
ともあれ、ここは東洋最大といわれる紀元前3~4世紀の銅鼓「 Pejengの月」で有名なところ。入り口から案内してくれた人は、寺の裏手のKamponを案内してくれた。Kamponは、小字よりもさらに小さい一続きの家屋の並び程度の印象だったが、 共通の寺を持ち、祭礼などの供物を用意する最小の単位でもあるそうだ。最後に「明後日、Bangliでお祭りがあるけど行かないか?」とツアーを持ちかけられたが、予定が不明なので、行くなら電話しますと答える。
帰途は、Pejengから西へ、Titiapiの集落を抜け、Petanu川を渡るルート。 とても眺めはよいのだが、渡河する渓谷が深く、暑さと上りのきつさに閉口させられた。人通りも少なくてとても爽快。途中で一服して Peliatanの北の道に出てようやくUbudへ戻った。
明日に向けて家々の飾り付けも進んでいる。目立つのは、道沿いに立てられた 竹製の飾り。薄くむいた竹の皮や、稲穂で細工が付けられているが、みな模様が違う。先端には色布が結えられ、そこから地面に向かって籠のようなものが吊るされているようだ。これが聞くところによると、道沿いのKampon毎に並べられるらしい。道の両側から長竹のアーチが一斉に伸びる様はなかなか華やか。
根元には供物を置く台が設けられ、そこからこれも竹で文様を作った シートのような飾りが伸びる。
Frog Pond Innは、このKamponでは重要な家なのか、 家の奥にある寺もきれいに飾られている。
夕方、マーケットに行って、マンゴスチンやランブータンを仕入れる。初日から気になって いたAyu's Kitchenなる小さなレストランで、レモンクランブルケーキを食べる。ここは ケーキが売り物らしい。おいしいけれどやっぱり甘い。アメリカのケーキに近い味。
雨季なので、毎日夕方から早宵にスコールのように雨が降る。9時ごろ雨を避けてIbu Rai Restaurantへ。チャンプルとIkan Babarという焼魚料理。ダメもとで箸はないか?と聞いた が、やっぱりなかった。

第五日 Ubud

宿の人がみな三々五々、正装して出かけていく。女性はサロンの上に黄色や赤の刺繍の上着 を来て紅いスカーフを留める。男性はサロンの上を光沢のある黄色の布で覆い、襟付きの白 いドレスシャツかジャケット姿。頭に白いスカーフを巻いている。
宿の人が朝食を持って来て、どうするの?と聞いてくれる。「明日に、どこかでお祭りがあ れば行きたいんですけど」と言うとRaiに伝えておくとのこと。知り合いのタクシーがあるか ら、使ってみるのだったら呼んであげる、と言う。
Munbal's Cafe(お休み)で、寛いでいたおじさんに話を聞くと、今日は各家庭での祭りで、みな(特に嫁いだ女性など)が、実家に戻ってきてお祝いするらしい。「パレードなんかはないんですか?」と聞くと「今日はないが、明日、Kemenuhで寺の祭礼があるよ」とのこと。 Roof Gadenで昼食。店は三分の一ほどは営業しているように見える。
一日、ブラブラして過ごす。今日は観光客の姿の方が目立つ。夜は、Cafe WayangのGalungan Special Buffetなるものを試す。食べ放題だったが、Rp.25,000の贅沢。同席したドイツ人の女性はSigarajaからバイクで着いたという。ジャワでちょうどラマダンに当たってしまい、日中、なにも食べられなかったときよりはいいわ、とのこと。
迂闊にも昨日の寺のガイド氏に連絡するのを忘れてしまう。しょうがない、自力で行ってみ ることにする。

第六日 Ubud

急に、Raiは病気で来られなくなったとのこと。とりあえずタクシーをやっているWayanという男性を呼んでもらう。夕方3時から夜8時までBangliまで行ってくれないか、と交渉。 Rp.50,000以下にはできない、とのこと。時給が$10以下になってしまうからだとか。 その条件で妥結。
2時半頃、サロンを持参して宿の人に着付けてもらう。Wayanが時間どおりに迎えにきた。彼の白いCIVICセダンでBangliへ。半時間ほどで高原の入り口のようなBangliに到着、気持ちのいい感じの町だが、どこにも祭りや行進のかけらもない。やはりPejengのガイドさん無しでは無理だったか、とちょっと落胆する。やむを得ず帰ろうとして、昨日Mumbal'sで聞いた Kemenuhの名前を思い出す。「じゃぁ、行くだけ行ってみよう」と向ってもらう。

Ginarからの幹線道路を北に折れ、村に入ってすぐ、Wayanが「あそこだ」と指差した。見ると 正装した男女が寺のような建物の前で、なにやら待機している。「さー行っておいで」とWayan はそっけなく我々をおろすと、ワルンでコーラを飲み始めてしまった。
正装しているとはいえ、はっきりいって目立ち過ぎてしまい、緊張していると、唐突に 供物を頭上に載せた女性たちが、建物から出てきて行進を始めた。楽器を持って控えていた青い服の男たち が銅鑼や鐘のようなものを鳴らす。日よけのような飾りを持った男たちが続く。行列はその後ろにたくさんの村人を従え、道を渡って村外れの寺へと 歩いていく。
偶然にも歩いている人の中に旅行会社で運転手をしている人がいて、日本語でいろいろな 説明をしてくれた。連れられて寺院の中へ入る。飾りや供物が備えられたり、東屋の下に積まれる。音楽が依然として続く中で、人々が祭壇の 方へ出てお祓いのような作業を受けている。
少女たちの舞が奉納されたりする中で、 みな寛いで 話をしたり、家に戻ったりしている。説明をしてくれた人によると、これから何日間か祭りは 続き、夜、遅くなると寺の前では屋台に混じって賭け事や踊りが催されるという。といっても それは夜の10時過ぎらしい。
家へ帰る人もいるし、寺の境内でござをひいて寝る人もいるとのことだった。
暗くなったので寺を出ると、外の駐車場にでた屋台にWayanがいた。彼はYogjakartaの大学の経済学部を出たのだが、不景気で仕事がなく、アルバイトにしていたタクシードライバーで生計を立てることになったという。「大学の時間は結局自分にとっては、 Nothingだったけれども、今に大きなタクシー会社のボスになるつもりだ」と話してくれた。遅くなったので夕食でもどうかと思ったのだが、尋ねると今夜はチャリティの食事会に行くといってチケットを見せてくれた。知り合いがいる福祉団体のやっている催しらしく、毎年行っているという。我々を降ろして金を受け取ると、彼はすぐに会場へ向って行った。
Casa Lunaで夕食。混んでいるが、賑やかだし値段も安くてなかなかよい。

第七日 Ubud

昨日の首尾を聞きにきた宿のおじいさんと、今日の行き先を相談する。近くを回りたいのなら、 Monkey Forestを抜けてNyu-kuning村へ行き、そこからPenestananへ行ってみたら?との提案。
Monkey Forestの手前で、バロンの行進に出会う。
Nyu-kuningは、静かで面白い村ではなかったが、そこからPenestananへ北上する道はのんびり していて散歩にはいいところ。
Penestananに入ると、南北の道沿いに、Young Artist Style、Traditional Styleなど、画法を 冠した画家のアトリエがたくさん並んでいる。西に村を抜けると、用水を跨いで Ayung川沿いの集落であるSayanに出る。
この道は上り坂(帰りはもちろん下り坂だが)な上に観光バスやトラックなどの大型車両が間断なく通る。途中でraftingから上がったばかりらしい日本人の若者集団に挨拶したが、いやそーな顔をして無視されてしまった。ちょっと悲しいが、exitしたばかりで疲れてもいれば、そん なものだろうか。
この川の並びは、Ubudでも最も雄大な眺めがあるため、最も高級なバンガロー型のリゾートホテルが林立している。パックツアーでよく使われるため、日本人の密度も高い地域だ。などと偉そうに言う我々も、2年前はパックで来てこの並びにある最高級ホテルKupu Kupu Baron に泊まったクチである。Sayan Terrace, Putra Umbara, Chahaya Dewata、水を飲んで休憩してか らようやくAmandariへ。Kupu Kupu Barongは、このさらに北隣にある。
実はこの道は、前回、ホテルで自転車を借りて、Ubud Centralに行こうとして通った道である。前回は下り坂にも関わらず、暑さのために途中でぐったりしてしまった。犬には吠え付かれるわ物売りには(具合が悪いのを見てか、さすがに遠慮がちだったけれど)お箸だの銀細工だのを売り込みに来られるわで、やむなくホテルに戻り、シャトルバスで街へ下りたのだった。
そのときは、冷房の効いたバンの窓からUbud Centralを見て、ずいぶんと情けない気持ちになったものだ。別に捲土重来という気はないけれど、見慣れぬ人たちの視線に怯え、野犬に怯えていた前回に比べると、多少は進歩したなと感慨に耽っても、罰は当たらないだろう。
Sayanからペダルを漕いで20分ちかく、ようやくKupu Kupu Barongの入り口が見えた。パックツアー で来ない限り、2度と泊まれないだろう高級ホテルである。
ここの、かつて朝食を取ったレストラン(Ayung川の崖っぷちの眺めが評判なところ)で、豪勢に昼食を取る、というのが私たちの今日の目玉だった。暑さのせいで、Chahaya DewataやらAmandari で挫折しかかったものの(それぞれ眺めのいいレストランがあるらしい)、そこはやっぱり懐か しいこのホテルで、と堪えた。
ここはご存知の人も多いと思う。 入口を入ってすぐに守衛の詰所と駐車場があり、細い藤(?)棚のある小道が奥へ伸びる。
道を挟んでこじんまりしたギフトショップがあり、前に来たときと同様、小さな子供たちが遊んでいる。親はその辺に腰掛けてこっちを見るとニコニコする。前に来たときはこのエリアがよくわからず、声をかけられると何かしつこく買わされるのではないかと、戦々恐々としていた。今から 思えば不思議なのだが。
抜けると車返しのある吹き抜けロビーへ。その奥が高級バンガローの客室とレストランになっている。レストランからの眺めはさすがに雄大で、やはり一見の価値はある。日本のガイドブックにも記載されているからか、日本人の割合も高い。驚いたのは、日本語を話すスタッフが増えていること。客層からいっても当然なのだろう。ぱーっといったつもりだったのだが、精一杯食べてRp.60,000強だった。ナシ・ゴレン系は、ご飯があるため満腹になり易い。とはいえ味はやはりいい。カード払い。
雲行きが怪しい。PenestananからChampuan経由で帰る。

今夜は、Peliatanで、Tirta Saliの舞台を見ることにする。 演目は、Welcome Dance、Legong Danceなど。
さすがにトップの劇団の一つだけあって、人気も高く演技も演奏も完成されていた。ただどちらかというと観光客に「見せる」という演出要素が大きくなっていて(バリで一般に目にできるダンスはみな観光客に見せることを主眼においている、というのは承知しているが)、完成されているだけに あまり新奇さがないとも感じた。
Mumbul'sで夕食。アイスクリーム・パーラーがあったのだが、残念ながら店じまいしてしまった。
雨に降られて宿に戻ると、隣の部屋のベルギー人の家族(数ヶ月かけて世界旅行しているという)が 帰ってきた。アメリカ人の友人たちとKetut's Placeで、Festival Menuの夕食を食べてきたという。
今晩は最終夜。パッキングして寝る。

第八日 Ubud~Airport~東京

10時にチェックアウトする。宿に荷物を置き、Lilies Cafeで昼食。パスタと、Nasi Urabという バナナの葉にくるんだサフランライスのような料理、それとジュース。
バスは夕方だから非常に暇である。食べるものを食べてしまうと、お茶を飲んでうたた寝状態。 店の人は、たまに通りがかって目が合うとニヤッとする。
2時半、Jl.HanumanからMonkey Forest方向に散歩。Monkey Forest近くのCafe Ratihでお茶。Rp.4,000。 ここは畳ではないものの、靴を脱いで座れる席がある。宿に戻って6時、宿の人たちに別れを告げる。シャトルバスへ乗って空港へ。例によって空模様が泣き出しそうで、この日ばかりはどことなく寂しさをそそられる。悪天候の中、30分近くも遅れたが離陸。
成田で降機する段になって、行きに会った同期と再会した。いずれ(国内での)再会を約して別れる。 偶然の多い旅だった。